14851村:非身内長期闇鍋村 [過去ログ:kako_log]
終了
人狼陣営
立て主
キャラセット
参加人数
34人 (4~99人)
更新方式
リアルタイム制
編成
シャッフル
パスワード
なし
1日の長さ
24時間
/ 投票 60秒
開始方法
自動(2018年12月11日 07:00)
村情報
| 通常発言数上限: 0発言 | アクション数上限: 0アクション |
| 発言数復活 |
|
| BOT投稿なし | |
| ダミー(初日)設定 | |||
| ダミー役職なし | 死亡フラグ回避 | 投稿セリフOFF | |
| ダミー変更不可能 | 初日占い |
||
| 基本設定 | |||
| カード人狼形式 | 夜コミットなし | 役職希望 |
名前入力 |
| 公開設定 | |||
| 票数公開なし | ID公開なし | 墓下公開なし | |
| GMモードOFF | 匿名ID軍解散 | ランダムCNなし | |
| 拡張機能オプション | |||
| 再投票なし | 二度寝しない | ||
| 決選投票なし | 自投票なし | 棄権投票なし | |
| 突然死なし | 退席なし | 遺言 |
|
| 役職機能オプション | |||
| 任意襲撃不可 | 連続護衛可 | 凄い共有能力OFF | ドラゴンボールなし |
| 後追い表示 |
復讐表示 |
恋仇第三陣営 | 因果応報 |
| カリスマ教祖OFF | 教吸第三陣営 | ||
| 変換オプション | |||
| 信者語尾なし | クルモン語翻訳 |
||
| 会話設定 | |||
| 妖魔念話 |
共鳴会話OFF | 狂鳴会話OFF | 恋人会話OFF |
| 秘話会話OFF | 匿名発言OFF | フリートークOFF | 障子にメラミ |
編成: シャッフル
過去ログ
どうやらこの村には、人狼が1人いるようですが、他はわかりません。ダミーの役職もランダムです。(人狼妖魔除く)
この村に潜む人狼は、突然変異によって進化しているようです。
ニート 欧司 は 人間 だったようです。
ニート 欧司 は 村人 だったようです。
この村に潜む人狼は、ツンデレ 弥生、ウェイトレス 南、外来 真子、学生 昌義、ファン 紅、研修医 忍 です。
究極の自由を得た 絵本作家 塗絵 の元に悪魔が囁きます。
ニート 欧司 は反逆的兆候が見られるこの村を排除します。
あなたと命を共にするのは、看護師 小百合 です。
あなたと命を共にするのは、キャバ嬢 瑠樺 です。
ふらふらと 番長 露瓶 が寝ぼけて出歩いています。
この村には我が配下、赤子 羽風、ツンデレ 弥生、警察官 晋護、ウェイトレス 南、小学生 朝陽、アイドル 茜、おしゃま 優奈、修道女 クリスタ の四天王が存在します。
どうやらこの騒動の裏には 黒幕 が存在するようです。
![]() | 1 不良 智哉 2018/12/11 07:00:05 ▼ | |
キスして? | ||
![]() | 2 小学生 朝陽 2018/12/11 07:00:14 ▼ | |
おはよう | ||
小学生 朝陽 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 3 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 07:00:28 ▼ | |
ハハッ。 | ||
![]() | 4 バニー 結良 2018/12/11 07:00:30 ▼ | |
おはにゃ〜 | ||
![]() | 5 文学部 麻耶 2018/12/11 07:00:30 ▼ | |
あっぶなー ID非公開にし忘れてたの1分前に思い出したわ | ||
![]() | 6 小学生 朝陽 2018/12/11 07:00:45 ▼ | |
黒幕… | ||
![]() | 7 囚人 要 2018/12/11 07:00:49 ▼ | |
此処は暗く、そして寒い。 | ||
![]() | 8 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 07:00:54 ▼ | |
黒幕いるのね……。 | ||
![]() | 9 文学部 麻耶 2018/12/11 07:00:55 ▼ | |
誰や黒幕入れたの まあいいけど | ||
囚人 要 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 10 番長 露瓶 2018/12/11 07:01:23 ▼ | |
俺の歴史に、また1ページ | ||
![]() | 11 バニー 結良 2018/12/11 07:01:23 ▼ | |
いきなり死んでる雑魚がいますね | ||
![]() | 12 囚人 要 2018/12/11 07:01:40 ▼ | |
ただ一つの俺の希望は弾かれた。 | ||
![]() | 13 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:01:47 ▼ | |
おはよう | ||
![]() | 14 囚人 要 2018/12/11 07:01:51 ▼ | |
それが意味するところは……。 | ||
![]() | 15 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 07:01:59 ▼ | |
おはん | ||
![]() | 16 バニー 結良 2018/12/11 07:02:04 ▼ | |
>>12 誰かの役職になってるよ | ||
![]() | -1 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:02:12 ▼ | |
えっ、何この役職?!なんか見たことある…? | ||
![]() | 17 番長 露瓶 2018/12/11 07:02:15 ▼ | |
ほんとだ、死んでる… | ||
宇宙飛行士 星児 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 18 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:02:29 ▼ | |
俺の黒幕が | ||
修道女 クリスタ が時間を進めるを選択しました。
![]() | 19 囚人 要 2018/12/11 07:02:52 ▼ | |
![]() | 20 バニー 結良 2018/12/11 07:02:54 ▼ | |
今日のところは襲撃で死ぬことはない 無敵の一日 | ||
![]() | -2 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 07:03:16 ▼ | |
勇者希望は多分つきんさんだよな……。 | ||
![]() | 21 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:03:17 ▼ | |
おはよう。 | ||
![]() | /1 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 07:03:17 ▼ | |
わーい窓だ窓だ! よろしくお願いいたします。 | ||
![]() | 22 文学部 麻耶 2018/12/11 07:03:20 ▼ | |
あ、ほんとだ 幽霊かコンピュータか 敵対コンピュータだったら勝ちやすそうだけどなあ 絶対人外変化系入れてるのいるだろうし | ||
![]() | 23 バニー 結良 2018/12/11 07:03:21 ▼ | |
それは残念 群馬でもいれてましたか | ||
お忍び ヴィクトリア が時間を進めるを選択しました。
番長 露瓶 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 24 囚人 要 2018/12/11 07:03:55 ▼ | |
つまり、村側が弱いということだ。 | ||
![]() | 25 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:04:00 ▼ | |
とりあえず紅吊ろうぜ | ||
文学部 麻耶は遺言を書きました。
「手相占い師だよん
自分に投票した人を占えるとかいう雑魚
マヤ」
「手相占い師だよん
自分に投票した人を占えるとかいう雑魚
マヤ」
![]() | 26 番長 露瓶 2018/12/11 07:04:17 ▼ | |
漢字消すヤベー奴やんそれ… | ||
![]() | 27 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:04:22 ▼ | |
開店でーす! 皆さまモーニングセットで宜しいですかー? ニート君は店内でいきなり倒れちゃいました! | ||
バニー 結良 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 28 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:04:32 ▼ | |
旧支配者出なかったんだね。 | ||
![]() | 29 文学部 麻耶 2018/12/11 07:04:37 ▼ | |
絶対者でも入れてたんかな | ||
![]() | 30 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 07:04:43 ▼ | |
黒幕だ、ころせ! というか、人狼ひとりですか。 気をつけないと | ||
![]() | 31 カメラマン つくね 2018/12/11 07:04:52 ▼ | |
おはようっす! ちょっと聞きたいんすけど、「遺言」って何すか? 説明読んだら短期でしか使えねーっぽいんすけど、長期だとどうなるんすか? | ||
![]() | 32 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:04:57 ▼ | |
ニートが死ぬぐらい、このねじ天スラムではよくあることだ | ||
キャバ嬢 瑠樺 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 33 バニー 結良 2018/12/11 07:05:17 ▼ | |
遺言は襲撃で死んだときに公開されますの | ||
![]() | 34 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:05:22 ▼ | |
??あ、本当だ。なんで死んでるの…?あの人ダミーじゃないよね? | ||
![]() | 35 囚人 要 2018/12/11 07:05:24 ▼ | |
絶対者なら絶対に採用されたと思う。 つまり、村側が弱いということだ。 | ||
![]() | 36 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:05:26 ▼ | |
>>30 6匹保護されてるから最低6人人狼がいるよ | ||
![]() | 37 文学部 麻耶 2018/12/11 07:05:27 ▼ | |
群馬とか旧支配者はNGって開始前に言ってますからね!? 入れた奴いたら次からわしの村出禁だわ | ||
![]() | 38 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 07:05:39 ▼ | |
処刑では公開されません。 | ||
![]() | 39 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:05:46 ▼ | |
人狼は、最低1人ってことじゃないかなー? | ||
![]() | 40 文学部 麻耶 2018/12/11 07:06:09 ▼ | |
>>36 絶対チェッカーなんで6W固定っす 狼入れたのは占い師枠を削るため、完全な闇鍋よ | ||
![]() | -3 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:06:10 ▼ | |
かなり外れっぽい。 | ||
![]() | 41 カメラマン つくね 2018/12/11 07:06:24 ▼ | |
![]() | 42 番長 露瓶 2018/12/11 07:06:30 ▼ | |
えっ、何希望してたか後でバレるん!? | ||
![]() | -4 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:06:39 ▼ | |
あれ。あ、窓ないんだ… | ||
![]() | 43 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:06:40 ▼ | |
>>36 めちゃおるやんけ!! | ||
カメラマン つくね が時間を進めるを選択しました。
囚人 要は遺言を書きました。
「自由の真髄
新渡戸稲造
+目次
内部の矩と外部の矩
論語にある「己おのれの欲するところに従えども矩のりを踰こえず」の一句こそ実に自由の定義を能よく述べて尽したものであると前号に説明し、然しからば矩とは何なるかと反問し、これには大略内部と外部との二つに分つことが出来ようと述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、しかしこの意味に於ける外部の矩も自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従い、あるいはもしそういう風俗習慣なり法律なりが存しなかったなら、自分から進んで拵こしらえたいと思うような矩であるならば、一見外部の矩の如くであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、これを外部の矩とはいい難がたい。故に立憲国の法律の如きは国民自身が制定するのであるから、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難かたい位である。
しかし自分が設けた法律でもこれを破れば制裁は外ほかより来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですらも、この法律の規定に反すれば制裁を遁のがれることは出来ない。警察なりその他外部の力によりて罪せらる。この意味に於ては法律もやはり外部の矩というてよいであろう。習慣もまた同じであろう。勿論風俗習慣に反したからとて一々罰せらるる訳ではない、青年は普通に紺絣こんがすりを着ている、この風俗を破って真赤な服で登校してもこれを罰することは出来ぬ。しかし世間の人は彼を笑うて狂人と見做みなすであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。シテ見れば法律の矩は踰こえないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風ふうに外部の矩を踰ゆると自ら外部の罰を受ける結果になる。ヨシ心の中で快とせぬことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和して行って、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、心の欲するところに従い得るから、大概のことは外部の矩に譲歩してその償としていわゆる自由を享有するのである。
然しからば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというに、それはやはり外部の自由だけであって、心底までその自由が徹底しているとはいわれない。言い換えれば国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことあるのにかかわらず、表向だけ唯々諾々としてこれを遵奉するは自ら欺くというもので、内部の矩を踰ゆるものではなかろうか。
内部の矩となるべき胸中のある者
人ひとは各自に思うところがある。一寸の虫にも五分の魂があるという、僕は寧むしろ一寸の虫にも五寸の魂といいたい。魂は身体より遥に大なるものである。世の中で何の名もなく位もないいわゆる田夫野人でんぷやじんであっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。これは独ひとり各自の慾望が多いとか慾に限りがないというのでない、僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何物かが胸中に存在している。
有名な英国の文士ウエルス氏が近頃一書を著あらわして世間を騒がした。一体この人はあらゆる方面の智識を味あじおうた人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。しかるに無宗教論で有名であったが、先頃始めて神に関する一書を出して大おおいに基督教キリストきょうを罵倒ばとうし、基督教の教ゆる神は論理上承認し難い、しかして自分の信ずる神、寧むしろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生るる時に備わって来て、恐らく自分が死すれば共に消ゆるものであろう。しかしそれはいわゆる自我とは異ことなり、独立なる存在で、ただ我体内に宿っている。しかして我を警いましめ、我を守り、我を誤らんとするものある時は必らずこれを警戒する、もし彼に反そむけば彼大に我を責める、従って苦めるものなりと説いている。昔陽明学者の歌に
皆人みなひとの詣まゐる社やしろに神かみはなし
こゝろの中うちに神かみぞまします
と教えたるその神の最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賤の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは、僕の堅く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。人はそれに背こうとしても背かれぬ、強て背けば終生心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのはあるいは神といわんか、昔のソクラテスのデイモンといわんか、旧約聖書にある声(voice)といわんか、名は人によりて異なるにしてもともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあるだけは何人も認めるところであろう。何人も認めながらその声に何時いつも服従する者は甚だ少い。要するにこの声を能よく守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子というものであろう。孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧ろ内部のこの矩を意味したのではなかろうか。孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ったことを聞かぬ、もし彼が外部の矩に背いたことありとすれば、下劣なる輿論に背いた位なものであろう。大体に於ては若い時から外部の矩を能く守った人と思わるるにかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言せるを見れば、この矩は必ず内部の矩であったろうと思われる。もしそうならば孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したのである。これを顛倒していえば良心の命ずる所は一として心の欲せざる所はないことになる。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようが、人と神と合致した所に達したのではないか。というも僕は孔子を以て神と同一視するのでないが、ウエルスのいわゆる神の意で合致せるというに過ぎぬ。
内外の矩の衝突した場合
外部の矩のりは守り易やすい。また悉ことごとくこれを守ったところがその人は平凡な国民あるいは臣民たるに過ぎない。これに反し内部の矩を守るは頗る難く、その代りにこれを完うすれば即ち聖人君子となるのである。ところが内部の矩の命ずることは必ずしも外部の矩の命ずるところと合致しない、一般臣民が善良なる風俗習慣としあるいは結構な法律と見做みなしているものも、聖人君子もしくは時代より一歩進んだ先覚者の眼より見れば、あるいは時世後れであったりあるいは無意味であったりあるいは有害であると認むるものが少くない。この場合には外部の矩は服従を要求しても内部の矩はこれに反対を命ずる、そこで内外の衝突が起って、何れの矩に従うべきか、凡人の思い寄らぬ争闘が心の中に起る。この場合には我々凡夫は内部の矩を棄てて外部の矩の要求通り行っておれば安全にしていわゆる自由に世を渡れるからその方を望む者が多いのであるが、しかし聖人君子の如き先覚者になると、外部の矩より内部の矩の方が大切であり、己の心に反していわゆる安固にいわゆる自由を求むることを潔とせぬ、そこで俗界のいわゆる安固と名利もこれを犠牲にしてまでもなおかつ内部の自由と安固とを得んとする。これは今日までの先覚者の例を見ても覚ることが出来る。近き例をいえば吉田松陰の
かくすればかくなるものと知しりながら
止やむに止やまれぬ大和魂やまとだましひ
というたのは、時の法律に反けば自分の生命の危きことは百も承知である、即ち外部の矩に反けば外部の利益自由を失う、生命をも失う、これは承知でありながら、如何せん止むに止まれぬ、反くに反かれぬ命令が心の中に発布せられ、その矩に従わざるを得ないところに立ち入ったのである。耶蘇やその伝を見ても世人の望むがままに身を処し、言いたいこともいわず、潔しと思わぬことも行おこない、時の政府の意に反かずにいたなら、あのような不自由もせず、あのような悲惨な死を遂げなかったであろう。洋の東西を問わず主義のために斃たおれ、宗教のために殉じた人々、あるいは時代より一歩進んだ考を懐き身を犠牲にした人々は、何れも内外の矩の衝突を経験して、その都度つど外部の矩に従わずして内部の矩に従った人である。僕はデモクラシーを論ずるに当りてその一大要素たる自由を、単に法律上の権利とか社会上の特権とかに限りて思うている間はまだまだ真の自由を解さぬもののような心地する。内部の矩を踰えない自由を理解してこそ始めてデモクラシーの真の味が分るものと思う。僕は仏教の教には甚だ暗いが、経文中でしばしば教ゆる一切平等は法律的あるいは社会的のものをいうの意でなく、僕がここに述べた意より一層深い一層高い意であると信ずるが、せめてここに説ただけの程度に於てさえも自由の何たるを理解するにあらざれば、デモクラシーの理想に達することは甚だ覚束おぼつかないと思う。
デモクラシーの指導者
またデモクラシーの指導者となるべき者は、自己の内部の自由を得んがために、外部の自由や権利をも捨つる位の覚悟がなければその目的を果すことは出来ない。先覚者は必らず時代に容いれられないものである。彼らは時代の社会より一歩か二歩、もしくは十歩二十歩先に出ている。よく兵を動かす指揮官は隊の中にありとはいいながら、身そのものは隊より数歩先に進んで率ひきゆると同じようなものである。身は社会にありてなお世のものではない、従って世から誤解されるのが当然である。ある意味に於ては誤解でない、低い程度に於て理解されているのである。庭に餌えさ拾う小雀は鷲の心を知らぬというが、小雀といえども鷲の心情を一から十まで誤解するのでない、その一分ぶ二分ぶは確に理解するも、あとの七分通りが分らぬのである。これ誤解でなくして不解である。この不解を恐れて自己の良心に反くことはただに自己に不忠なるばかりでなく、世に対しても不忠になる。何となれば先覚者があればこそ世が進むのである。一国の人々の思想が悉く統一されたり、何事に就ても異説がないとしたら、社会は如何にして進歩があろうか。いわゆる時代思想に超然たる人あればこそその人を殺してもなおその人の恩を受けることは遠い例に鑑かんがみるに必要もない、明治維新の際、日本を造った人は何れも当時の幕府より見れば異論であり売国奴であり危険思想を懐いていた人々である。彼らはその一身を犠牲にしたけれども、しかも彼らによりて新しい日本は造られたのである。佐藤一斎のいわゆる俗情に墜おちいらざるこれを介かいというと教えたのはこの点であって、如何いかに外部の圧迫が強くとも、己の心に潔いさぎよしとせざることに従わぬところを俗情に墜おちいらずというのである。恐らく人間と生れた最大の権利は自分の心に従うことであろう。心の外に別の法なし、少くとも心に優る法律はない、勿論この理ことわりを極端に説けば、啓発されない人心までも心であるから、その心に従い、それ以外のものに反くというたなら、社会の成立は出来なくなる。そうなれば前に述べたルソーのいわゆる自由となりて動物と選ぶところがなくなる。故に孟子の教でも陽明の教でも、徳川の圧制政治ではこれを危険視して教えなかったのも無理ならぬことである。
今僕がやや陽明に関した説をここに述べ、自由の本義を述べたが、読者に於ては既に承知のことであろう、しかしこの説を誤れば独り我身のみならず社会をも過あやまるものである故危険が多い、危険の多い説なるが故に、僕は注意を惹ひくの必要ありと思い、ここにその一端を述べた次第である。
〔一九一九年三月一日『実業之日本』二二巻五号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
初出:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」
「自由の真髄
新渡戸稲造
+目次
内部の矩と外部の矩
論語にある「己おのれの欲するところに従えども矩のりを踰こえず」の一句こそ実に自由の定義を能よく述べて尽したものであると前号に説明し、然しからば矩とは何なるかと反問し、これには大略内部と外部との二つに分つことが出来ようと述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、しかしこの意味に於ける外部の矩も自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従い、あるいはもしそういう風俗習慣なり法律なりが存しなかったなら、自分から進んで拵こしらえたいと思うような矩であるならば、一見外部の矩の如くであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、これを外部の矩とはいい難がたい。故に立憲国の法律の如きは国民自身が制定するのであるから、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難かたい位である。
しかし自分が設けた法律でもこれを破れば制裁は外ほかより来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですらも、この法律の規定に反すれば制裁を遁のがれることは出来ない。警察なりその他外部の力によりて罪せらる。この意味に於ては法律もやはり外部の矩というてよいであろう。習慣もまた同じであろう。勿論風俗習慣に反したからとて一々罰せらるる訳ではない、青年は普通に紺絣こんがすりを着ている、この風俗を破って真赤な服で登校してもこれを罰することは出来ぬ。しかし世間の人は彼を笑うて狂人と見做みなすであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。シテ見れば法律の矩は踰こえないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風ふうに外部の矩を踰ゆると自ら外部の罰を受ける結果になる。ヨシ心の中で快とせぬことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和して行って、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、心の欲するところに従い得るから、大概のことは外部の矩に譲歩してその償としていわゆる自由を享有するのである。
然しからば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというに、それはやはり外部の自由だけであって、心底までその自由が徹底しているとはいわれない。言い換えれば国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことあるのにかかわらず、表向だけ唯々諾々としてこれを遵奉するは自ら欺くというもので、内部の矩を踰ゆるものではなかろうか。
内部の矩となるべき胸中のある者
人ひとは各自に思うところがある。一寸の虫にも五分の魂があるという、僕は寧むしろ一寸の虫にも五寸の魂といいたい。魂は身体より遥に大なるものである。世の中で何の名もなく位もないいわゆる田夫野人でんぷやじんであっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。これは独ひとり各自の慾望が多いとか慾に限りがないというのでない、僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何物かが胸中に存在している。
有名な英国の文士ウエルス氏が近頃一書を著あらわして世間を騒がした。一体この人はあらゆる方面の智識を味あじおうた人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。しかるに無宗教論で有名であったが、先頃始めて神に関する一書を出して大おおいに基督教キリストきょうを罵倒ばとうし、基督教の教ゆる神は論理上承認し難い、しかして自分の信ずる神、寧むしろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生るる時に備わって来て、恐らく自分が死すれば共に消ゆるものであろう。しかしそれはいわゆる自我とは異ことなり、独立なる存在で、ただ我体内に宿っている。しかして我を警いましめ、我を守り、我を誤らんとするものある時は必らずこれを警戒する、もし彼に反そむけば彼大に我を責める、従って苦めるものなりと説いている。昔陽明学者の歌に
皆人みなひとの詣まゐる社やしろに神かみはなし
こゝろの中うちに神かみぞまします
と教えたるその神の最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賤の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは、僕の堅く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。人はそれに背こうとしても背かれぬ、強て背けば終生心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのはあるいは神といわんか、昔のソクラテスのデイモンといわんか、旧約聖書にある声(voice)といわんか、名は人によりて異なるにしてもともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあるだけは何人も認めるところであろう。何人も認めながらその声に何時いつも服従する者は甚だ少い。要するにこの声を能よく守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子というものであろう。孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧ろ内部のこの矩を意味したのではなかろうか。孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ったことを聞かぬ、もし彼が外部の矩に背いたことありとすれば、下劣なる輿論に背いた位なものであろう。大体に於ては若い時から外部の矩を能く守った人と思わるるにかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言せるを見れば、この矩は必ず内部の矩であったろうと思われる。もしそうならば孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したのである。これを顛倒していえば良心の命ずる所は一として心の欲せざる所はないことになる。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようが、人と神と合致した所に達したのではないか。というも僕は孔子を以て神と同一視するのでないが、ウエルスのいわゆる神の意で合致せるというに過ぎぬ。
内外の矩の衝突した場合
外部の矩のりは守り易やすい。また悉ことごとくこれを守ったところがその人は平凡な国民あるいは臣民たるに過ぎない。これに反し内部の矩を守るは頗る難く、その代りにこれを完うすれば即ち聖人君子となるのである。ところが内部の矩の命ずることは必ずしも外部の矩の命ずるところと合致しない、一般臣民が善良なる風俗習慣としあるいは結構な法律と見做みなしているものも、聖人君子もしくは時代より一歩進んだ先覚者の眼より見れば、あるいは時世後れであったりあるいは無意味であったりあるいは有害であると認むるものが少くない。この場合には外部の矩は服従を要求しても内部の矩はこれに反対を命ずる、そこで内外の衝突が起って、何れの矩に従うべきか、凡人の思い寄らぬ争闘が心の中に起る。この場合には我々凡夫は内部の矩を棄てて外部の矩の要求通り行っておれば安全にしていわゆる自由に世を渡れるからその方を望む者が多いのであるが、しかし聖人君子の如き先覚者になると、外部の矩より内部の矩の方が大切であり、己の心に反していわゆる安固にいわゆる自由を求むることを潔とせぬ、そこで俗界のいわゆる安固と名利もこれを犠牲にしてまでもなおかつ内部の自由と安固とを得んとする。これは今日までの先覚者の例を見ても覚ることが出来る。近き例をいえば吉田松陰の
かくすればかくなるものと知しりながら
止やむに止やまれぬ大和魂やまとだましひ
というたのは、時の法律に反けば自分の生命の危きことは百も承知である、即ち外部の矩に反けば外部の利益自由を失う、生命をも失う、これは承知でありながら、如何せん止むに止まれぬ、反くに反かれぬ命令が心の中に発布せられ、その矩に従わざるを得ないところに立ち入ったのである。耶蘇やその伝を見ても世人の望むがままに身を処し、言いたいこともいわず、潔しと思わぬことも行おこない、時の政府の意に反かずにいたなら、あのような不自由もせず、あのような悲惨な死を遂げなかったであろう。洋の東西を問わず主義のために斃たおれ、宗教のために殉じた人々、あるいは時代より一歩進んだ考を懐き身を犠牲にした人々は、何れも内外の矩の衝突を経験して、その都度つど外部の矩に従わずして内部の矩に従った人である。僕はデモクラシーを論ずるに当りてその一大要素たる自由を、単に法律上の権利とか社会上の特権とかに限りて思うている間はまだまだ真の自由を解さぬもののような心地する。内部の矩を踰えない自由を理解してこそ始めてデモクラシーの真の味が分るものと思う。僕は仏教の教には甚だ暗いが、経文中でしばしば教ゆる一切平等は法律的あるいは社会的のものをいうの意でなく、僕がここに述べた意より一層深い一層高い意であると信ずるが、せめてここに説ただけの程度に於てさえも自由の何たるを理解するにあらざれば、デモクラシーの理想に達することは甚だ覚束おぼつかないと思う。
デモクラシーの指導者
またデモクラシーの指導者となるべき者は、自己の内部の自由を得んがために、外部の自由や権利をも捨つる位の覚悟がなければその目的を果すことは出来ない。先覚者は必らず時代に容いれられないものである。彼らは時代の社会より一歩か二歩、もしくは十歩二十歩先に出ている。よく兵を動かす指揮官は隊の中にありとはいいながら、身そのものは隊より数歩先に進んで率ひきゆると同じようなものである。身は社会にありてなお世のものではない、従って世から誤解されるのが当然である。ある意味に於ては誤解でない、低い程度に於て理解されているのである。庭に餌えさ拾う小雀は鷲の心を知らぬというが、小雀といえども鷲の心情を一から十まで誤解するのでない、その一分ぶ二分ぶは確に理解するも、あとの七分通りが分らぬのである。これ誤解でなくして不解である。この不解を恐れて自己の良心に反くことはただに自己に不忠なるばかりでなく、世に対しても不忠になる。何となれば先覚者があればこそ世が進むのである。一国の人々の思想が悉く統一されたり、何事に就ても異説がないとしたら、社会は如何にして進歩があろうか。いわゆる時代思想に超然たる人あればこそその人を殺してもなおその人の恩を受けることは遠い例に鑑かんがみるに必要もない、明治維新の際、日本を造った人は何れも当時の幕府より見れば異論であり売国奴であり危険思想を懐いていた人々である。彼らはその一身を犠牲にしたけれども、しかも彼らによりて新しい日本は造られたのである。佐藤一斎のいわゆる俗情に墜おちいらざるこれを介かいというと教えたのはこの点であって、如何いかに外部の圧迫が強くとも、己の心に潔いさぎよしとせざることに従わぬところを俗情に墜おちいらずというのである。恐らく人間と生れた最大の権利は自分の心に従うことであろう。心の外に別の法なし、少くとも心に優る法律はない、勿論この理ことわりを極端に説けば、啓発されない人心までも心であるから、その心に従い、それ以外のものに反くというたなら、社会の成立は出来なくなる。そうなれば前に述べたルソーのいわゆる自由となりて動物と選ぶところがなくなる。故に孟子の教でも陽明の教でも、徳川の圧制政治ではこれを危険視して教えなかったのも無理ならぬことである。
今僕がやや陽明に関した説をここに述べ、自由の本義を述べたが、読者に於ては既に承知のことであろう、しかしこの説を誤れば独り我身のみならず社会をも過あやまるものである故危険が多い、危険の多い説なるが故に、僕は注意を惹ひくの必要ありと思い、ここにその一端を述べた次第である。
〔一九一九年三月一日『実業之日本』二二巻五号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
初出:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」
![]() | 44 バニー 結良 2018/12/11 07:06:47 ▼ | |
ばれないよ | ||
![]() | 45 文学部 麻耶 2018/12/11 07:06:48 ▼ | |
>>34 幽霊およびコンピュータは開始直後に死にます | ||
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「自由の真髄
新渡戸稲造
+目次
内部の矩と外部の矩
論語にある「己おのれの欲するところに従えども矩のりを踰こえず」の一句こそ実に自由の定義を能よく述べて尽したものであると前号に説明し、然しからば矩とは何なるかと反問し、これには大略内部と外部との二つに分つことが出来ようと述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、しかしこの意味に於ける外部の矩も自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従い、あるいはもしそういう風俗習慣なり法律なりが存しなかったなら、自分から進んで拵こしらえたいと思うような矩であるならば、一見外部の矩の如くであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、これを外部の矩とはいい難がたい。故に立憲国の法律の如きは国民自身が制定するのであるから、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難かたい位である。
しかし自分が設けた法律でもこれを破れば制裁は外ほかより来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですらも、この法律の規定に反すれば制裁を遁のがれることは出来ない。警察なりその他外部の力によりて罪せらる。この意味に於ては法律もやはり外部の矩というてよいであろう。習慣もまた同じであろう。勿論風俗習慣に反したからとて一々罰せらるる訳ではない、青年は普通に紺絣こんがすりを着ている、この風俗を破って真赤な服で登校してもこれを罰することは出来ぬ。しかし世間の人は彼を笑うて狂人と見做みなすであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。シテ見れば法律の矩は踰こえないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風ふうに外部の矩を踰ゆると自ら外部の罰を受ける結果になる。ヨシ心の中で快とせぬことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和して行って、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、心の欲するところに従い得るから、大概のことは外部の矩に譲歩してその償としていわゆる自由を享有するのである。
然しからば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというに、それはやはり外部の自由だけであって、心底までその自由が徹底しているとはいわれない。言い換えれば国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことあるのにかかわらず、表向だけ唯々諾々としてこれを遵奉するは自ら欺くというもので、内部の矩を踰ゆるものではなかろうか。
内部の矩となるべき胸中のある者
人ひとは各自に思うところがある。一寸の虫にも五分の魂があるという、僕は寧むしろ一寸の虫にも五寸の魂といいたい。魂は身体より遥に大なるものである。世の中で何の名もなく位もないいわゆる田夫野人でんぷやじんであっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。これは独ひとり各自の慾望が多いとか慾に限りがないというのでない、僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何物かが胸中に存在している。
有名な英国の文士ウエルス氏が近頃一書を著あらわして世間を騒がした。一体この人はあらゆる方面の智識を味あじおうた人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。しかるに無宗教論で有名であったが、先頃始めて神に関する一書を出して大おおいに基督教キリストきょうを罵倒ばとうし、基督教の教ゆる神は論理上承認し難い、しかして自分の信ずる神、寧むしろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生るる時に備わって来て、恐らく自分が死すれば共に消ゆるものであろう。しかしそれはいわゆる自我とは異ことなり、独立なる存在で、ただ我体内に宿っている。しかして我を警いましめ、我を守り、我を誤らんとするものある時は必らずこれを警戒する、もし彼に反そむけば彼大に我を責める、従って苦めるものなりと説いている。昔陽明学者の歌に
皆人みなひとの詣まゐる社やしろに神かみはなし
こゝろの中うちに神かみぞまします
と教えたるその神の最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賤の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは、僕の堅く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。人はそれに背こうとしても背かれぬ、強て背けば終生心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのはあるいは神といわんか、昔のソクラテスのデイモンといわんか、旧約聖書にある声(voice)といわんか、名は人によりて異なるにしてもともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあるだけは何人も認めるところであろう。何人も認めながらその声に何時いつも服従する者は甚だ少い。要するにこの声を能よく守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子というものであろう。孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧ろ内部のこの矩を意味したのではなかろうか。孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ったことを聞かぬ、もし彼が外部の矩に背いたことありとすれば、下劣なる輿論に背いた位なものであろう。大体に於ては若い時から外部の矩を能く守った人と思わるるにかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言せるを見れば、この矩は必ず内部の矩であったろうと思われる。もしそうならば孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したのである。これを顛倒していえば良心の命ずる所は一として心の欲せざる所はないことになる。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようが、人と神と合致した所に達したのではないか。というも僕は孔子を以て神と同一視するのでないが、ウエルスのいわゆる神の意で合致せるというに過ぎぬ。
内外の矩の衝突した場合
外部の矩のりは守り易やすい。また悉ことごとくこれを守ったところがその人は平凡な国民あるいは臣民たるに過ぎない。これに反し内部の矩を守るは頗る難く、その代りにこれを完うすれば即ち聖人君子となるのである。ところが内部の矩の命ずることは必ずしも外部の矩の命ずるところと合致しない、一般臣民が善良なる風俗習慣としあるいは結構な法律と見做みなしているものも、聖人君子もしくは時代より一歩進んだ先覚者の眼より見れば、あるいは時世後れであったりあるいは無意味であったりあるいは有害であると認むるものが少くない。この場合には外部の矩は服従を要求しても内部の矩はこれに反対を命ずる、そこで内外の衝突が起って、何れの矩に従うべきか、凡人の思い寄らぬ争闘が心の中に起る。この場合には我々凡夫は内部の矩を棄てて外部の矩の要求通り行っておれば安全にしていわゆる自由に世を渡れるからその方を望む者が多いのであるが、しかし聖人君子の如き先覚者になると、外部の矩より内部の矩の方が大切であり、己の心に反していわゆる安固にいわゆる自由を求むることを潔とせぬ、そこで俗界のいわゆる安固と名利もこれを犠牲にしてまでもなおかつ内部の自由と安固とを得んとする。これは今日までの先覚者の例を見ても覚ることが出来る。近き例をいえば吉田松陰の
かくすればかくなるものと知しりながら
止やむに止やまれぬ大和魂やまとだましひ
というたのは、時の法律に反けば自分の生命の危きことは百も承知である、即ち外部の矩に反けば外部の利益自由を失う、生命をも失う、これは承知でありながら、如何せん止むに止まれぬ、反くに反かれぬ命令が心の中に発布せられ、その矩に従わざるを得ないところに立ち入ったのである。耶蘇やその伝を見ても世人の望むがままに身を処し、言いたいこともいわず、潔しと思わぬことも行おこない、時の政府の意に反かずにいたなら、あのような不自由もせず、あのような悲惨な死を遂げなかったであろう。洋の東西を問わず主義のために斃たおれ、宗教のために殉じた人々、あるいは時代より一歩進んだ考を懐き身を犠牲にした人々は、何れも内外の矩の衝突を経験して、その都度つど外部の矩に従わずして内部の矩に従った人である。僕はデモクラシーを論ずるに当りてその一大要素たる自由を、単に法律上の権利とか社会上の特権とかに限りて思うている間はまだまだ真の自由を解さぬもののような心地する。内部の矩を踰えない自由を理解してこそ始めてデモクラシーの真の味が分るものと思う。僕は仏教の教には甚だ暗いが、経文中でしばしば教ゆる一切平等は法律的あるいは社会的のものをいうの意でなく、僕がここに述べた意より一層深い一層高い意であると信ずるが、せめてここに説ただけの程度に於てさえも自由の何たるを理解するにあらざれば、デモクラシーの理想に達することは甚だ覚束おぼつかないと思う。
デモクラシーの指導者
またデモクラシーの指導者となるべき者は、自己の内部の自由を得んがために、外部の自由や権利をも捨つる位の覚悟がなければその目的を果すことは出来ない。先覚者は必らず時代に容いれられないものである。彼らは時代の社会より一歩か二歩、もしくは十歩二十歩先に出ている。よく兵を動かす指揮官は隊の中にありとはいいながら、身そのものは隊より数歩先に進んで率ひきゆると同じようなものである。身は社会にありてなお世のものではない、従って世から誤解されるのが当然である。ある意味に於ては誤解でない、低い程度に於て理解されているのである。庭に餌えさ拾う小雀は鷲の心を知らぬというが、小雀といえども鷲の心情を一から十まで誤解するのでない、その一分ぶ二分ぶは確に理解するも、あとの七分通りが分らぬのである。これ誤解でなくして不解である。この不解を恐れて自己の良心に反くことはただに自己に不忠なるばかりでなく、世に対しても不忠になる。何となれば先覚者があればこそ世が進むのである。一国の人々の思想が悉く統一されたり、何事に就ても異説がないとしたら、社会は如何にして進歩があろうか。いわゆる時代思想に超然たる人あればこそその人を殺してもなおその人の恩を受けることは遠い例に鑑かんがみるに必要もない、明治維新の際、日本を造った人は何れも当時の幕府より見れば異論であり売国奴であり危険思想を懐いていた人々である。彼らはその一身を犠牲にしたけれども、しかも彼らによりて新しい日本は造られたのである。佐藤一斎のいわゆる俗情に墜おちいらざるこれを介かいというと教えたのはこの点であって、如何いかに外部の圧迫が強くとも、己の心に潔いさぎよしとせざることに従わぬところを俗情に墜おちいらずというのである。恐らく人間と生れた最大の権利は自分の心に従うことであろう。心の外に別の法なし、少くとも心に優る法律はない、勿論この理ことわりを極端に説けば、啓発されない人心までも心であるから、その心に従い、それ以外のものに反くというたなら、社会の成立は出来なくなる。そうなれば前に述べたルソーのいわゆる自由となりて動物と選ぶところがなくなる。故に孟子の教でも陽明の教でも、徳川の圧制政治ではこれを危険視して教えなかったのも無理ならぬことである。
今僕がやや陽明に関した説をここに述べ、自由の本義を述べたが、読者に於ては既に承知のことであろう、しかしこの説を誤れば独り我身のみならず社会をも過あやまるものである故危険が多い、危険の多い説なるが故に、僕は注意を惹ひくの必要ありと思い、ここにその一端を述べた次第である。
〔一九一九年三月一日『実業之日本』二二巻五号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
初出:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」
「自由の真髄
新渡戸稲造
+目次
内部の矩と外部の矩
論語にある「己おのれの欲するところに従えども矩のりを踰こえず」の一句こそ実に自由の定義を能よく述べて尽したものであると前号に説明し、然しからば矩とは何なるかと反問し、これには大略内部と外部との二つに分つことが出来ようと述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、しかしこの意味に於ける外部の矩も自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従い、あるいはもしそういう風俗習慣なり法律なりが存しなかったなら、自分から進んで拵こしらえたいと思うような矩であるならば、一見外部の矩の如くであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、これを外部の矩とはいい難がたい。故に立憲国の法律の如きは国民自身が制定するのであるから、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難かたい位である。
しかし自分が設けた法律でもこれを破れば制裁は外ほかより来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですらも、この法律の規定に反すれば制裁を遁のがれることは出来ない。警察なりその他外部の力によりて罪せらる。この意味に於ては法律もやはり外部の矩というてよいであろう。習慣もまた同じであろう。勿論風俗習慣に反したからとて一々罰せらるる訳ではない、青年は普通に紺絣こんがすりを着ている、この風俗を破って真赤な服で登校してもこれを罰することは出来ぬ。しかし世間の人は彼を笑うて狂人と見做みなすであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。シテ見れば法律の矩は踰こえないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風ふうに外部の矩を踰ゆると自ら外部の罰を受ける結果になる。ヨシ心の中で快とせぬことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和して行って、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、心の欲するところに従い得るから、大概のことは外部の矩に譲歩してその償としていわゆる自由を享有するのである。
然しからば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというに、それはやはり外部の自由だけであって、心底までその自由が徹底しているとはいわれない。言い換えれば国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことあるのにかかわらず、表向だけ唯々諾々としてこれを遵奉するは自ら欺くというもので、内部の矩を踰ゆるものではなかろうか。
内部の矩となるべき胸中のある者
人ひとは各自に思うところがある。一寸の虫にも五分の魂があるという、僕は寧むしろ一寸の虫にも五寸の魂といいたい。魂は身体より遥に大なるものである。世の中で何の名もなく位もないいわゆる田夫野人でんぷやじんであっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。これは独ひとり各自の慾望が多いとか慾に限りがないというのでない、僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何物かが胸中に存在している。
有名な英国の文士ウエルス氏が近頃一書を著あらわして世間を騒がした。一体この人はあらゆる方面の智識を味あじおうた人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。しかるに無宗教論で有名であったが、先頃始めて神に関する一書を出して大おおいに基督教キリストきょうを罵倒ばとうし、基督教の教ゆる神は論理上承認し難い、しかして自分の信ずる神、寧むしろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生るる時に備わって来て、恐らく自分が死すれば共に消ゆるものであろう。しかしそれはいわゆる自我とは異ことなり、独立なる存在で、ただ我体内に宿っている。しかして我を警いましめ、我を守り、我を誤らんとするものある時は必らずこれを警戒する、もし彼に反そむけば彼大に我を責める、従って苦めるものなりと説いている。昔陽明学者の歌に
皆人みなひとの詣まゐる社やしろに神かみはなし
こゝろの中うちに神かみぞまします
と教えたるその神の最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賤の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは、僕の堅く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。人はそれに背こうとしても背かれぬ、強て背けば終生心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのはあるいは神といわんか、昔のソクラテスのデイモンといわんか、旧約聖書にある声(voice)といわんか、名は人によりて異なるにしてもともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあるだけは何人も認めるところであろう。何人も認めながらその声に何時いつも服従する者は甚だ少い。要するにこの声を能よく守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子というものであろう。孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧ろ内部のこの矩を意味したのではなかろうか。孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ったことを聞かぬ、もし彼が外部の矩に背いたことありとすれば、下劣なる輿論に背いた位なものであろう。大体に於ては若い時から外部の矩を能く守った人と思わるるにかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言せるを見れば、この矩は必ず内部の矩であったろうと思われる。もしそうならば孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したのである。これを顛倒していえば良心の命ずる所は一として心の欲せざる所はないことになる。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようが、人と神と合致した所に達したのではないか。というも僕は孔子を以て神と同一視するのでないが、ウエルスのいわゆる神の意で合致せるというに過ぎぬ。
内外の矩の衝突した場合
外部の矩のりは守り易やすい。また悉ことごとくこれを守ったところがその人は平凡な国民あるいは臣民たるに過ぎない。これに反し内部の矩を守るは頗る難く、その代りにこれを完うすれば即ち聖人君子となるのである。ところが内部の矩の命ずることは必ずしも外部の矩の命ずるところと合致しない、一般臣民が善良なる風俗習慣としあるいは結構な法律と見做みなしているものも、聖人君子もしくは時代より一歩進んだ先覚者の眼より見れば、あるいは時世後れであったりあるいは無意味であったりあるいは有害であると認むるものが少くない。この場合には外部の矩は服従を要求しても内部の矩はこれに反対を命ずる、そこで内外の衝突が起って、何れの矩に従うべきか、凡人の思い寄らぬ争闘が心の中に起る。この場合には我々凡夫は内部の矩を棄てて外部の矩の要求通り行っておれば安全にしていわゆる自由に世を渡れるからその方を望む者が多いのであるが、しかし聖人君子の如き先覚者になると、外部の矩より内部の矩の方が大切であり、己の心に反していわゆる安固にいわゆる自由を求むることを潔とせぬ、そこで俗界のいわゆる安固と名利もこれを犠牲にしてまでもなおかつ内部の自由と安固とを得んとする。これは今日までの先覚者の例を見ても覚ることが出来る。近き例をいえば吉田松陰の
かくすればかくなるものと知しりながら
止やむに止やまれぬ大和魂やまとだましひ
というたのは、時の法律に反けば自分の生命の危きことは百も承知である、即ち外部の矩に反けば外部の利益自由を失う、生命をも失う、これは承知でありながら、如何せん止むに止まれぬ、反くに反かれぬ命令が心の中に発布せられ、その矩に従わざるを得ないところに立ち入ったのである。耶蘇やその伝を見ても世人の望むがままに身を処し、言いたいこともいわず、潔しと思わぬことも行おこない、時の政府の意に反かずにいたなら、あのような不自由もせず、あのような悲惨な死を遂げなかったであろう。洋の東西を問わず主義のために斃たおれ、宗教のために殉じた人々、あるいは時代より一歩進んだ考を懐き身を犠牲にした人々は、何れも内外の矩の衝突を経験して、その都度つど外部の矩に従わずして内部の矩に従った人である。僕はデモクラシーを論ずるに当りてその一大要素たる自由を、単に法律上の権利とか社会上の特権とかに限りて思うている間はまだまだ真の自由を解さぬもののような心地する。内部の矩を踰えない自由を理解してこそ始めてデモクラシーの真の味が分るものと思う。僕は仏教の教には甚だ暗いが、経文中でしばしば教ゆる一切平等は法律的あるいは社会的のものをいうの意でなく、僕がここに述べた意より一層深い一層高い意であると信ずるが、せめてここに説ただけの程度に於てさえも自由の何たるを理解するにあらざれば、デモクラシーの理想に達することは甚だ覚束おぼつかないと思う。
デモクラシーの指導者
またデモクラシーの指導者となるべき者は、自己の内部の自由を得んがために、外部の自由や権利をも捨つる位の覚悟がなければその目的を果すことは出来ない。先覚者は必らず時代に容いれられないものである。彼らは時代の社会より一歩か二歩、もしくは十歩二十歩先に出ている。よく兵を動かす指揮官は隊の中にありとはいいながら、身そのものは隊より数歩先に進んで率ひきゆると同じようなものである。身は社会にありてなお世のものではない、従って世から誤解されるのが当然である。ある意味に於ては誤解でない、低い程度に於て理解されているのである。庭に餌えさ拾う小雀は鷲の心を知らぬというが、小雀といえども鷲の心情を一から十まで誤解するのでない、その一分ぶ二分ぶは確に理解するも、あとの七分通りが分らぬのである。これ誤解でなくして不解である。この不解を恐れて自己の良心に反くことはただに自己に不忠なるばかりでなく、世に対しても不忠になる。何となれば先覚者があればこそ世が進むのである。一国の人々の思想が悉く統一されたり、何事に就ても異説がないとしたら、社会は如何にして進歩があろうか。いわゆる時代思想に超然たる人あればこそその人を殺してもなおその人の恩を受けることは遠い例に鑑かんがみるに必要もない、明治維新の際、日本を造った人は何れも当時の幕府より見れば異論であり売国奴であり危険思想を懐いていた人々である。彼らはその一身を犠牲にしたけれども、しかも彼らによりて新しい日本は造られたのである。佐藤一斎のいわゆる俗情に墜おちいらざるこれを介かいというと教えたのはこの点であって、如何いかに外部の圧迫が強くとも、己の心に潔いさぎよしとせざることに従わぬところを俗情に墜おちいらずというのである。恐らく人間と生れた最大の権利は自分の心に従うことであろう。心の外に別の法なし、少くとも心に優る法律はない、勿論この理ことわりを極端に説けば、啓発されない人心までも心であるから、その心に従い、それ以外のものに反くというたなら、社会の成立は出来なくなる。そうなれば前に述べたルソーのいわゆる自由となりて動物と選ぶところがなくなる。故に孟子の教でも陽明の教でも、徳川の圧制政治ではこれを危険視して教えなかったのも無理ならぬことである。
今僕がやや陽明に関した説をここに述べ、自由の本義を述べたが、読者に於ては既に承知のことであろう、しかしこの説を誤れば独り我身のみならず社会をも過あやまるものである故危険が多い、危険の多い説なるが故に、僕は注意を惹ひくの必要ありと思い、ここにその一端を述べた次第である。
〔一九一九年三月一日『実業之日本』二二巻五号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
初出:「実業之日本 二二巻五号」実業之日本社
1919(大正8)年3月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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![]() | 46 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:07:22 ▼ | |
あ、絶対チェッカーってそういうやつなのね 村側21人固定ってこと? | ||
宇宙飛行士 星児は遺言を書きました。
「\\勇者co//
陣営変化したかったから昨日は使わなかったよ☆」
「\\勇者co//
陣営変化したかったから昨日は使わなかったよ☆」
![]() | 47 番長 露瓶 2018/12/11 07:07:42 ▼ | |
まぁべつに変なの希望してないけど | ||
![]() | 48 カメラマン つくね 2018/12/11 07:07:49 ▼ | |
はっきり言って、こんなん入れたの誰だよって思ってるっすから、終わってから公開されて欲しいっす | ||
![]() | 49 文学部 麻耶 2018/12/11 07:07:50 ▼ | |
遺言には記名しといてね 乗っ取り系いたら牽制にもなるよ | ||
![]() | 50 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 07:08:11 ▼ | |
ああ、記名か。 | ||
![]() | 51 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:08:14 ▼ | |
>>45 そんな役職があるんだね。開始直後に死ぬのはかわいそう… | ||
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
![]() | 52 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:08:26 ▼ | |
開始直後に死んじゃうかわいそうな役職あるんですねー。 | ||
宇宙飛行士 星児は遺言を書きなおしました。
「\\勇者co//
陣営変化したかったから昨日は使わなかったよ☆
星児」
「\\勇者co//
陣営変化したかったから昨日は使わなかったよ☆
星児」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
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1913(大正2)年11月1日
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1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
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」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
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1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
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1913(大正2)年11月1日
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1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
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囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
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」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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囚人 要は遺言を書きなおしました。
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
「「死」の問題に対して
新渡戸稲造
死というような哲学じみた問題は、僕らの口を出すべきものでもないし、また出したところで何らの権威にもなるまい。が、ただ死というものは人間として誰でも免るべからざる事柄であり、かつまた考えまいと思っても必ず我々の心を襲うて来る事柄であるから、哲学者でなくても、何人でも、死については何かの思想は持っているものである。しかし一般にいえば死なる現象をいくらか弄もてあそぶという嫌いもなきにしもあらずと思う。殆んど巫山戯ふざけ半分に死を論ずるというものもある。しかしこの死に対する観念態度の奈何いかんは即ち凡俗と聖賢とを区別する標準じゃないかと思う。死を怖れるというと語弊があるが、また死を軽んずるといえばよく聞えるけれども、軽んじ方によっては甚だ愚の極であって、日本人は死することを何とも思わぬというは、褒ほめれば褒めるようなものの、生の責任を知らぬものと批難さるるのも無理ならぬことと思う。
死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こういう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るるとは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というものはさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』——あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に——あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが——子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死というものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象と見做してよいように思う。
私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテスの伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若として死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマの如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬかと思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。
〔一九一三年一一月一日『中央公論』二八年一三号〕
底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
初出:「中央公論 二八年一三号」反省社
1913(大正2)年11月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2011年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
」
![]() | -5 番長 露瓶 2018/12/11 07:08:43 ▼ | |
自分を村人だと思い込んでる系だろうか | ||
カメラマン つくねは遺言を書きました。
「今夜は忘年会っす!あと自分、洗礼者っすけど、この村だと意味なくね?」
「今夜は忘年会っす!あと自分、洗礼者っすけど、この村だと意味なくね?」
![]() | 53 文学部 麻耶 2018/12/11 07:08:59 ▼ | |
>>46 村「側」なら今のところは まあ今ぼっちで墓にいるやつが村側コンピュータなら22人だけど | ||
![]() | 54 カメラマン つくね 2018/12/11 07:09:09 ▼ | |
>>49 あ!なるほど! | ||
![]() | 55 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:09:19 ▼ | |
幽霊(幽)【村人陣営】 あなたは既に死した身の幽霊です。 浮遊霊であるあなたは村が始まった時点で死んでいます。もし何らかの役職の効果によっては蘇ることも可能ですが、たとえ蘇っても残念ながら人数には数えません。 既に死んだ身であるあなたですが村人達の議論に混じって発言も、投票も行えます。(但し投票のコミットには含まれません) 心優しい幽霊であるあなたはきっと村人達を導いてくれるでしょう。 ※この役職が編成に含まれると強制的に墓下公開オフになります。 | ||
![]() | 56 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:09:28 ▼ | |
開幕死亡については有識者の解説待ち。 | ||
![]() | 57 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:09:32 ▼ | |
遺言何描こうかな | ||
![]() | 58 文学部 麻耶 2018/12/11 07:09:41 ▼ | |
>>51 いうて発言も投票もできますしおすし コミット条件には含まれないけどね | ||
![]() | 59 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:09:47 ▼ | |
コンピュータ(電)【特殊陣営】 アナタハ 人間達ノ親愛ナル友人 コンピュータ デス。どの陣営にも属さず特殊な勝敗条件をもつ役職です。 アナタには生死の概念がなく、人間達から見たら生きていないようにも見えるのでしょう。 村の開始時の時点で死亡扱いとなっています。蘇生役職から蘇生されることもありません。 しかし死の概念のないアナタは墓下からでも発言ができ、投票も行えます。(ただし投票でアナタはコミットに含まれません) アナタは本来は親愛なる友人である村人達の幸福を願う存在です。しかし、もし反逆的兆候が見られる村であったのなら排除する必要があります。 | ||
![]() | 60 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:09:52 ▼ | |
その村が親愛なる村か、反逆的な村かは開始時に発覚します。 親愛なる村であったのなら村人達の勝利を、反逆的な村であったのなら村人達の敗北がアナタの勝利条件となるでしょう。 | ||
![]() | 61 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:10:11 ▼ | |
なんで891発言もあるんだ? 荒らしていいのか? | ||
![]() | 62 バニー 結良 2018/12/11 07:10:12 ▼ | |
骸狼よりつよい | ||
![]() | 63 看護師 小百合 2018/12/11 07:10:17 ▼ | |
おはようございます。 今回はおしとやかにがんばります! | ||
![]() | 64 カメラマン つくね 2018/12/11 07:10:21 ▼ | |
開始直後に死んでも会話はできるってやつっすよね? うっひゃー!かっちょえーっす! | ||
![]() | 65 バニー 結良 2018/12/11 07:10:31 ▼ | |
>>61 そのための891発言 | ||
![]() | 66 アイドル 岬 2018/12/11 07:10:47 ▼ | |
最低6匹って期待値めちゃくちゃ多いんじゃ? と思ったけど、PPチェッカーonだった。 | ||
![]() | 67 番長 露瓶 2018/12/11 07:10:47 ▼ | |
幸福です! | ||
![]() | 68 外来 真子 2018/12/11 07:10:52 ▼ | |
おはようございますー。 | ||
![]() | 69 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:11:03 ▼ | |
死んでても喋れるってことか。じゃあ寂しくないですねー! | ||
![]() | 70 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:11:09 ▼ | |
幽霊だったら味方、コンピュータだったら敵の可能性がある | ||
![]() | 71 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:11:35 ▼ | |
ほぼほぼ骸狼と一緒なんだね…はは | ||
![]() | 72 文学部 麻耶 2018/12/11 07:11:40 ▼ | |
>>61 わしが多弁かつ白衣教信者なのと本来こんな人数想定してなかったのと | ||
ウェイトレス 南 が時間を進めるを選択しました。
カメラマン つくねは遺言を書きなおしました。
「おっす!俺つくね!今夜は忘年会っす!
あと自分、洗礼者っすけど、この村だと意味なくね?」
「おっす!俺つくね!今夜は忘年会っす!
あと自分、洗礼者っすけど、この村だと意味なくね?」
![]() | 73 バニー 結良 2018/12/11 07:11:52 ▼ | |
コンピュータ仮置き安定 | ||
教育学部 伊澄 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 74 看護師 小百合 2018/12/11 07:12:21 ▼ | |
また序盤からよくわからない現象があってとまどっているんですが、 とりあえず、この遺言というのは書いておけば良いんですかね。 | ||
![]() | 75 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:12:35 ▼ | |
ここはコミットボタンがあるんだね | ||
![]() | 76 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:12:36 ▼ | |
まぁニートには墓下の叡智を拾ってくる為に働いてもらおう | ||
![]() | 77 看護師 小百合 2018/12/11 07:12:50 ▼ | |
は、はっぴゃくきゅうじゅういちはつげん…。 | ||
![]() | 78 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:12:51 ▼ | |
あのニートさんまとめプロだったな 期待しておきます | ||
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「 昔々、あるところにカチカチ山と言う大きな山がありました。
これはその大きな山がカチカチ山と呼ばれるようになった理由の物語であり、戦いの記録でもあるのです。
昔々、名も無き山に住んでいる親子狸がいました。
「ねえ、父ちゃん」
「どうした、息子よ」
二匹は仲良く夕飯を食べながら、話をしています。
「この山で、一番強くて怖いものって何?」
「そうだなあ……」
親狸は、腕を組んで考えます。
「やっぱり、力強いクマさん? それとも、頭のいいキツネさん? それとも、俊敏なオオカミさん?」
「うーん、確かにみんな私達よりは強いけれど、一番強くて、怖いのは……」
「強くて、怖いのは?」
子狸は、目を輝かせながら訪ねます。
「色々なものを化かすことが出来る、私達狸」
「本当? 本当? お父さん、一番強くて怖いの?」
「……では無いんだな、残念ながら」
親狸は、おどけたような仕草を見せながら言いました。
「えー。それじゃあ、この山で一番強く怖いものはなぁに?」
「それはやっぱり、人間だな。キツネはオオカミに追いつめられるし、オオカミはクマに負けるし、クマはキツネに化かされるけれど……人間はそれら全てに勝つことが出来る。そして、それら全てを食べるんだ。キツネも、オオカミも、クマも……そして狸も、だ」
子狸は、それを聞いて小さな躰をふるふると震わせます。
「ははっ、大丈夫さ息子よ。私の目が黒い内は、私がお前を守るからね。だから、決して人間にだけは近付いてはいけないよ。いいね?」
「うん、わかった」
こうして、今日も平和に日が暮れていきました。
そしてある日。
「父ちゃん、父ちゃん!」
狸の親子が山を歩いていると、親狸が人間の仕掛けた罠に掛かってしまいました。
「息子よ……どうやら私はもう駄目なようだ」
「そんな、父ちゃん! 父ちゃん!」
子狸は懸命に罠を外そうとするものの、鉄のハサミが足深くに食い込んで外れません。
「早くしないと、ここに人間が来る。だからお前は、今の内に逃げるんだ」
「そんな、嫌だよ! 父ちゃん、父ちゃん……!」
子狸はわんわんと泣きます。しかし、親狸は優しく笑い、子狸の頭を撫でました。
「仕方がない、仕方がないことなんだ。弱い肉を強い者が食べる。ここはそういう世界で、私もお前もその宿命から逃れることは出来無い。出来無いんだよ。私も母さんも、人間に喰われて死ぬ。それだけだ。だから息子よ、強くなれ。そして……生き延びるんだ」
親狸はそう言って、息子を突き飛ばしました。
「父ちゃん!」
その時、足音が近付いて来ます。
「お、掛かっているな。今日は狸鍋だ」
「逃げろおー!」
それが、親狸の発した最後の言葉でした。
そして時は経ち、子狸は立派な山一番の大狸になりました。ある決意を胸に秘めたまま。
「おや、狸さん。何処へ行くんだい?」
何処かへ行こうとしている狸に対して、キツネは声を掛けます。
「ちょっとばかし、人間を化かしにね」
「おやおや、一人で大丈夫かい? 私達キツネでも、人間を化かすのには苦労するってのに」
狸は笑って答えます。
「大丈夫、大丈夫。それにこれは僕がやらないと意味が無いんだ」
「へえ、そうなのかい。それじゃあ気を付けてね」
「キツネさんも」
狸は手を振って歩き出します。
野を越え、山を越え、谷を越え。
ある人間に出会う為に。
三日歩いて、狸はようやく目的の場所に着きました。
自分の両親の仇が住む、人間の家へと。
「うーん、うーん」
すると、家の中からうなり声が聞こえて来ます。
「石臼を引くのは大変だねえ。うーん、うーん」
狸が中を覗いてみると、おばあさんが中で重そうな石臼を引いていました。
「やあ、おばあさん。大変そうだね。手伝ってあげようか?」
「おお、あんた、見ない顔だねえ。それじゃあ一つ、お願いするよ」
「そうれ!」
狸は、おばあさんの気が緩んだところを見計らって、石で殴りかかりました。
「痛い、痛い、何をするんだ」
「何、今日の晩飯の手伝いをしてあげるだけさ」
そのまま狸はおばあさんの頭を何度も何度も石で打ち据えて、おばあさんを叩き殺してしまいました。
「さて、それじゃあ取り敢えず皮を剥いて、内臓と骨とを取り除くとするか」
そうやって狸は、おじいさんが帰ってくるまでに手早く全ての準備を済ませました。
それは何度も考えに考えたことであり、練習して来たことなので思いの外上手くいったのです。
「おや、いい匂いだねえ」
しばらくすると、おじいさんが帰ってきました。
忘れもしない、この臭い。おじいさんこそ、狸の両親を食べた男だと狸は再確認します。
「今日、山の神様がやって来て子狸の肉をくれたんだよ。だから今日は狸鍋だよ」
「ほほう、そりゃ嬉しい。何たって、狸鍋は儂の大好物だからね」
おじいさんは、おばあさんの皮を被った狸に全く気付くことなくお椀を差し出します。
「今日は農作業でくたくただからね。疲れた時は狸鍋に限る。おっと、その前に山の神様に感謝しないとね。ありがたや、ありがたや」
おばあさんの皮を被った狸は、にこにこしながらおじいさんのお椀に狸鍋をよそります。
「いただきます! 美味い、美味い。やっぱり狸鍋は美味いねえ。子狸にしてはちょっと肉が筋張ってて硬い気もするけど、それでも美味しいねえ」
「さあさあ、たっぷりあるからたんと食べてくださいね」
おばあさんの皮を被った狸は満足そうに、ばばあ鍋を食べ始めました。
おじいさんは六回もお代わりをし、ばばあ鍋はあっという間にすっからかん。
「いやあ、美味しかったねえ。おばあさんの作る料理はいつも最高だ」
「ああ、本当に美味しかったよ。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、接吻のように甘い。これが復讐の味か」
狸はそう言って、おばあさんの皮を脱ぎました。それを見て、おじいさんはぽかんとしています。
「今お前が喰ったのは、この皮の中身。お前の妻だよ、人間。ばばあ鍋は美味かったか?」
それだけ言うと、ケタケタと笑いながら狸は逃げて行きました。
おじいさんはそれを聞いて、泡を吹いて倒れ、寝込んでしまいました。
こうして、狸の復讐は実を結び、地面に落ち、大輪の華を咲かせたのです。
ある日、寝込んでいるおじいさんのところへ兎がお見舞いにやって来ました。
「おじいさん、おじいさん、どうしたの?」
「狸が……儂に……婆さんを……」
おじいさんが兎に事情を話すと、兎は立ち上がり言いました。
「それは酷い。よし、私が仇を取って来てあげるよ!」
そう言うと、兎はぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねて行きました。
「おや兎さん、何してるんだい?」
狸がご機嫌で山を歩いていると、枝を拾っている兎に遭遇しました。
「今年の冬は冷え込みそうだからね、焚き火用の枝を拾い集めてるんだよ。私は毛皮も薄いし、寒がりだからさ」
「へえ、そりゃ大変そうだね。手伝おうか?」
「本当? 助かるよ!」
兎は集めた枝を狸へと渡して行きます。
「うわ、こりゃ大量だね。一度に持てそうに無いよ」
「じゃあ、この縄を使ったらどうかな。私じゃとても支えきれないけれど、狸君ならいけるかもよ」
「解った、やってみようか」
兎は枝を縄で一纏めにして、それを狸の躰に固く固く結びつけます。
「よっ。うん、何とかなりそうだ。これを何処に持って行けばいいんだい?」
「こっちこっち」
兎は自分も枝の束を抱え、歩き始めます。
野を越え、山越え、谷越えて。
狸はふうふう息を切らせてそれについて行きます。
「此処此処、此処だよ。この山の上に私の家はあるんだ」
「へえ、この山の上か。どれ、もう一頑張りするかな」
狸は兎を追い抜かし、山の上へと歩きます。
すると、カチカチと言う音が聞こえてました。兎が、火打ち石を鳴らして狸の背負っている枝の束に火を点けようとしていたのです。
「ねえねえ兎さん、何だか変な音が聞こえないかい? カチカチっていう」
「ああ、僕の住んでるこの山はカチカチ山だからね。時々カチカチって音が聞こえて来るのさ」
兎はそう言いながら、狸の背負った枝の束に火を点けました。最初はパチパチと、そして直ぐにボーボーと燃えはじめます。
「ああ、何だか熱くなって来たな。それにボーボーと音が聞こえる」
「この辺りにはボーボー鳥が住んでるからね。ボーボーと鳴き声がするのさ」
そんな事を言っている間に火が大きくなり、ようやく狸は異変に気付きました。
「あ、熱い! 燃えてる!」
「しっかりと縛っておいたからね、君が燃え尽きるまで外れないよ」
兎はクスクスと笑いながら、狸の足を引っかけて転ばせます。
「何故、何故こんな事をするんだ!」
「それはね、狸さん。私が復讐の代理人、アベンジャーだからだよ。君は、おばあさんを殺してそれをおじいさんに食べさせただろう?」
狸は苦しみながら、叫びます。
「お前も、お前も俺の両親があいつに殺されて喰われたのは知ってるだろう! だから、俺はあいつに家族を喰われる悲しみ、苦しみ、憤りを教えてやっただけだ! そうとも、俺は復讐しただけだ! 最初にやったのは、あいつの方なんだぞ!」
「まあ、そうだね。確かにあの人間の方が悪いよ」
兎はしれっと答えます。
「じゃあ、何故」
「それはね、人情に厚くお人好しの狸さん。人間がとってもとってもとってもとっても強くて恐ろしいからだよ。今はまだ何とかなっているけれど、その内間違いなくこの世界は人間に支配される。人間に楯突くオオカミなんか、きっと真っ先に滅ぼされてしまうだろうね。まあそうなった時の為に、私達兎は今の内から媚びを売っておいてる訳さ」
狸はそれを聞いて、泣きながら訴えます。
「畜生、君はその為に僕を売ったんだな! 絶対に、絶対に赦さないからな! きっとこの話を知った他の動物達も、お前を赦さないはずだ!」
「真実を知れば、まあそうだろうね。けど、此処には私と君しか居ない。歴史ってのは勝者が作るものなんだよ。知らなかったのかい?
兎はケタケタと笑い、燃え尽きようとしている狸に語ります。
「人間に頼まれた正義の兎が、度を過ぎた悪戯をした狸をカチカチ山で討ち滅ぼした。そういうストーリーにしておこうか。これを聞いた後世の人々はきっと、狸は悪戯好きの悪い奴で兎は賢くて正義感溢れる人間の味方だと思うだろうね。ははははは、あははははははは!」
「ちく……しょう、畜……生…………」
こうして狸は、悔しさに胸を詰まらせたまま焼け死んでしまいました。
そして兎は自分で作った『かちかち山』の物語をおじいさんに聞かせ、大層感謝されましたとさ。
その後、兎の予想通りオオカミが絶滅した頃、兎の目論見通り『かちかち山』の話は後世に語り継がれ、今ではポピュラーな昔話として多くの人間達に認知されるようになりました。真実としての、カチカチ山戦記は闇に葬られたまま。
めでたし、めでたし。
」
「 昔々、あるところにカチカチ山と言う大きな山がありました。
これはその大きな山がカチカチ山と呼ばれるようになった理由の物語であり、戦いの記録でもあるのです。
昔々、名も無き山に住んでいる親子狸がいました。
「ねえ、父ちゃん」
「どうした、息子よ」
二匹は仲良く夕飯を食べながら、話をしています。
「この山で、一番強くて怖いものって何?」
「そうだなあ……」
親狸は、腕を組んで考えます。
「やっぱり、力強いクマさん? それとも、頭のいいキツネさん? それとも、俊敏なオオカミさん?」
「うーん、確かにみんな私達よりは強いけれど、一番強くて、怖いのは……」
「強くて、怖いのは?」
子狸は、目を輝かせながら訪ねます。
「色々なものを化かすことが出来る、私達狸」
「本当? 本当? お父さん、一番強くて怖いの?」
「……では無いんだな、残念ながら」
親狸は、おどけたような仕草を見せながら言いました。
「えー。それじゃあ、この山で一番強く怖いものはなぁに?」
「それはやっぱり、人間だな。キツネはオオカミに追いつめられるし、オオカミはクマに負けるし、クマはキツネに化かされるけれど……人間はそれら全てに勝つことが出来る。そして、それら全てを食べるんだ。キツネも、オオカミも、クマも……そして狸も、だ」
子狸は、それを聞いて小さな躰をふるふると震わせます。
「ははっ、大丈夫さ息子よ。私の目が黒い内は、私がお前を守るからね。だから、決して人間にだけは近付いてはいけないよ。いいね?」
「うん、わかった」
こうして、今日も平和に日が暮れていきました。
そしてある日。
「父ちゃん、父ちゃん!」
狸の親子が山を歩いていると、親狸が人間の仕掛けた罠に掛かってしまいました。
「息子よ……どうやら私はもう駄目なようだ」
「そんな、父ちゃん! 父ちゃん!」
子狸は懸命に罠を外そうとするものの、鉄のハサミが足深くに食い込んで外れません。
「早くしないと、ここに人間が来る。だからお前は、今の内に逃げるんだ」
「そんな、嫌だよ! 父ちゃん、父ちゃん……!」
子狸はわんわんと泣きます。しかし、親狸は優しく笑い、子狸の頭を撫でました。
「仕方がない、仕方がないことなんだ。弱い肉を強い者が食べる。ここはそういう世界で、私もお前もその宿命から逃れることは出来無い。出来無いんだよ。私も母さんも、人間に喰われて死ぬ。それだけだ。だから息子よ、強くなれ。そして……生き延びるんだ」
親狸はそう言って、息子を突き飛ばしました。
「父ちゃん!」
その時、足音が近付いて来ます。
「お、掛かっているな。今日は狸鍋だ」
「逃げろおー!」
それが、親狸の発した最後の言葉でした。
そして時は経ち、子狸は立派な山一番の大狸になりました。ある決意を胸に秘めたまま。
「おや、狸さん。何処へ行くんだい?」
何処かへ行こうとしている狸に対して、キツネは声を掛けます。
「ちょっとばかし、人間を化かしにね」
「おやおや、一人で大丈夫かい? 私達キツネでも、人間を化かすのには苦労するってのに」
狸は笑って答えます。
「大丈夫、大丈夫。それにこれは僕がやらないと意味が無いんだ」
「へえ、そうなのかい。それじゃあ気を付けてね」
「キツネさんも」
狸は手を振って歩き出します。
野を越え、山を越え、谷を越え。
ある人間に出会う為に。
三日歩いて、狸はようやく目的の場所に着きました。
自分の両親の仇が住む、人間の家へと。
「うーん、うーん」
すると、家の中からうなり声が聞こえて来ます。
「石臼を引くのは大変だねえ。うーん、うーん」
狸が中を覗いてみると、おばあさんが中で重そうな石臼を引いていました。
「やあ、おばあさん。大変そうだね。手伝ってあげようか?」
「おお、あんた、見ない顔だねえ。それじゃあ一つ、お願いするよ」
「そうれ!」
狸は、おばあさんの気が緩んだところを見計らって、石で殴りかかりました。
「痛い、痛い、何をするんだ」
「何、今日の晩飯の手伝いをしてあげるだけさ」
そのまま狸はおばあさんの頭を何度も何度も石で打ち据えて、おばあさんを叩き殺してしまいました。
「さて、それじゃあ取り敢えず皮を剥いて、内臓と骨とを取り除くとするか」
そうやって狸は、おじいさんが帰ってくるまでに手早く全ての準備を済ませました。
それは何度も考えに考えたことであり、練習して来たことなので思いの外上手くいったのです。
「おや、いい匂いだねえ」
しばらくすると、おじいさんが帰ってきました。
忘れもしない、この臭い。おじいさんこそ、狸の両親を食べた男だと狸は再確認します。
「今日、山の神様がやって来て子狸の肉をくれたんだよ。だから今日は狸鍋だよ」
「ほほう、そりゃ嬉しい。何たって、狸鍋は儂の大好物だからね」
おじいさんは、おばあさんの皮を被った狸に全く気付くことなくお椀を差し出します。
「今日は農作業でくたくただからね。疲れた時は狸鍋に限る。おっと、その前に山の神様に感謝しないとね。ありがたや、ありがたや」
おばあさんの皮を被った狸は、にこにこしながらおじいさんのお椀に狸鍋をよそります。
「いただきます! 美味い、美味い。やっぱり狸鍋は美味いねえ。子狸にしてはちょっと肉が筋張ってて硬い気もするけど、それでも美味しいねえ」
「さあさあ、たっぷりあるからたんと食べてくださいね」
おばあさんの皮を被った狸は満足そうに、ばばあ鍋を食べ始めました。
おじいさんは六回もお代わりをし、ばばあ鍋はあっという間にすっからかん。
「いやあ、美味しかったねえ。おばあさんの作る料理はいつも最高だ」
「ああ、本当に美味しかったよ。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、接吻のように甘い。これが復讐の味か」
狸はそう言って、おばあさんの皮を脱ぎました。それを見て、おじいさんはぽかんとしています。
「今お前が喰ったのは、この皮の中身。お前の妻だよ、人間。ばばあ鍋は美味かったか?」
それだけ言うと、ケタケタと笑いながら狸は逃げて行きました。
おじいさんはそれを聞いて、泡を吹いて倒れ、寝込んでしまいました。
こうして、狸の復讐は実を結び、地面に落ち、大輪の華を咲かせたのです。
ある日、寝込んでいるおじいさんのところへ兎がお見舞いにやって来ました。
「おじいさん、おじいさん、どうしたの?」
「狸が……儂に……婆さんを……」
おじいさんが兎に事情を話すと、兎は立ち上がり言いました。
「それは酷い。よし、私が仇を取って来てあげるよ!」
そう言うと、兎はぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねて行きました。
「おや兎さん、何してるんだい?」
狸がご機嫌で山を歩いていると、枝を拾っている兎に遭遇しました。
「今年の冬は冷え込みそうだからね、焚き火用の枝を拾い集めてるんだよ。私は毛皮も薄いし、寒がりだからさ」
「へえ、そりゃ大変そうだね。手伝おうか?」
「本当? 助かるよ!」
兎は集めた枝を狸へと渡して行きます。
「うわ、こりゃ大量だね。一度に持てそうに無いよ」
「じゃあ、この縄を使ったらどうかな。私じゃとても支えきれないけれど、狸君ならいけるかもよ」
「解った、やってみようか」
兎は枝を縄で一纏めにして、それを狸の躰に固く固く結びつけます。
「よっ。うん、何とかなりそうだ。これを何処に持って行けばいいんだい?」
「こっちこっち」
兎は自分も枝の束を抱え、歩き始めます。
野を越え、山越え、谷越えて。
狸はふうふう息を切らせてそれについて行きます。
「此処此処、此処だよ。この山の上に私の家はあるんだ」
「へえ、この山の上か。どれ、もう一頑張りするかな」
狸は兎を追い抜かし、山の上へと歩きます。
すると、カチカチと言う音が聞こえてました。兎が、火打ち石を鳴らして狸の背負っている枝の束に火を点けようとしていたのです。
「ねえねえ兎さん、何だか変な音が聞こえないかい? カチカチっていう」
「ああ、僕の住んでるこの山はカチカチ山だからね。時々カチカチって音が聞こえて来るのさ」
兎はそう言いながら、狸の背負った枝の束に火を点けました。最初はパチパチと、そして直ぐにボーボーと燃えはじめます。
「ああ、何だか熱くなって来たな。それにボーボーと音が聞こえる」
「この辺りにはボーボー鳥が住んでるからね。ボーボーと鳴き声がするのさ」
そんな事を言っている間に火が大きくなり、ようやく狸は異変に気付きました。
「あ、熱い! 燃えてる!」
「しっかりと縛っておいたからね、君が燃え尽きるまで外れないよ」
兎はクスクスと笑いながら、狸の足を引っかけて転ばせます。
「何故、何故こんな事をするんだ!」
「それはね、狸さん。私が復讐の代理人、アベンジャーだからだよ。君は、おばあさんを殺してそれをおじいさんに食べさせただろう?」
狸は苦しみながら、叫びます。
「お前も、お前も俺の両親があいつに殺されて喰われたのは知ってるだろう! だから、俺はあいつに家族を喰われる悲しみ、苦しみ、憤りを教えてやっただけだ! そうとも、俺は復讐しただけだ! 最初にやったのは、あいつの方なんだぞ!」
「まあ、そうだね。確かにあの人間の方が悪いよ」
兎はしれっと答えます。
「じゃあ、何故」
「それはね、人情に厚くお人好しの狸さん。人間がとってもとってもとってもとっても強くて恐ろしいからだよ。今はまだ何とかなっているけれど、その内間違いなくこの世界は人間に支配される。人間に楯突くオオカミなんか、きっと真っ先に滅ぼされてしまうだろうね。まあそうなった時の為に、私達兎は今の内から媚びを売っておいてる訳さ」
狸はそれを聞いて、泣きながら訴えます。
「畜生、君はその為に僕を売ったんだな! 絶対に、絶対に赦さないからな! きっとこの話を知った他の動物達も、お前を赦さないはずだ!」
「真実を知れば、まあそうだろうね。けど、此処には私と君しか居ない。歴史ってのは勝者が作るものなんだよ。知らなかったのかい?
兎はケタケタと笑い、燃え尽きようとしている狸に語ります。
「人間に頼まれた正義の兎が、度を過ぎた悪戯をした狸をカチカチ山で討ち滅ぼした。そういうストーリーにしておこうか。これを聞いた後世の人々はきっと、狸は悪戯好きの悪い奴で兎は賢くて正義感溢れる人間の味方だと思うだろうね。ははははは、あははははははは!」
「ちく……しょう、畜……生…………」
こうして狸は、悔しさに胸を詰まらせたまま焼け死んでしまいました。
そして兎は自分で作った『かちかち山』の物語をおじいさんに聞かせ、大層感謝されましたとさ。
その後、兎の予想通りオオカミが絶滅した頃、兎の目論見通り『かちかち山』の話は後世に語り継がれ、今ではポピュラーな昔話として多くの人間達に認知されるようになりました。真実としての、カチカチ山戦記は闇に葬られたまま。
めでたし、めでたし。
」
![]() | 79 アイドル 岬 2018/12/11 07:12:56 ▼ | |
そういえば、自分が入れた役職に苦しめられる役職になっちゃった。 | ||
![]() | 80 外来 真子 2018/12/11 07:13:09 ▼ | |
し、死んでる…。 の流れはもうやった感じですね。 ニートさんは幽霊かコンピュータ様か。 骸狼も強かったけど最初からか、この二つは。 | ||
修道女 クリスタは遺言を書きました。
「吟遊詩人」
「吟遊詩人」
バニー 結良は遺言を書きました。
「バニーで看板娘とかイケるやん
エロ同人待ったなし」
「バニーで看板娘とかイケるやん
エロ同人待ったなし」
教育学部 伊澄は遺言を書きました。
「本物の黒幕はバニー 結良 だよ…ぐはっ…」
「本物の黒幕はバニー 結良 だよ…ぐはっ…」
![]() | 81 文学部 麻耶 2018/12/11 07:13:32 ▼ | |
まあ絶対チェッカーだし村かどうかはおいおいわかるでしょ そういや裏切者フリーク的に気になるんだけど幽霊コンピも裏切り被弾するん? | ||
![]() | 82 アイドル 岬 2018/12/11 07:13:33 ▼ | |
……希望役職言及って大丈夫だよね。 | ||
![]() | 83 カメラマン つくね 2018/12/11 07:13:51 ▼ | |
四天王の期待値8人すかね | ||
![]() | 84 バニー 結良 2018/12/11 07:14:04 ▼ | |
絶対者とか言ってるやつがいるしまあ多少はね | ||
![]() | 85 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:14:29 ▼ | |
自分が入れた役職は、どっか行っちゃいましたよ。 誰かの元に届いてるんですかねえ……。 コーヒーおかわりいかがですか〜〜? | ||
![]() | 86 アイドル 岬 2018/12/11 07:14:34 ▼ | |
とりあえずコミットしておやすみなさい。 | ||
アイドル 岬 が時間を進めるを選択しました。
![]() | -6 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:14:44 ▼ | |
>>83 わぁー当たってる〜 | ||
![]() | 87 バニー 結良 2018/12/11 07:14:59 ▼ | |
幽霊ズは裏切りも四天王もないでしょ | ||
![]() | 88 カメラマン つくね 2018/12/11 07:14:59 ▼ | |
そういえば希望役職言えば配役だいたいわかるっす? でも嘘言う人いるでしょうからねー。 | ||
![]() | 89 看護師 小百合 2018/12/11 07:15:18 ▼ | |
希望役職は言及していいと思います。 希望役職の中でランダム(PPチェッカーにより、編成バランスがオカシイ場合は弾かれて村側役職がランダムで混ざる) という編成でしたよね? | ||
![]() | 90 文学部 麻耶 2018/12/11 07:15:35 ▼ | |
んー 個人的には面白みがなくなるしメタで信用得る人外も出てきそうだしあんま言わんでほしいけど まあ蹴られてたりもあるだろうから個人の裁量に任せますわ | ||
![]() | 91 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:15:39 ▼ | |
![]() | 92 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:15:47 ▼ | |
![]() | 93 看護師 小百合 2018/12/11 07:15:58 ▼ | |
死者に矢は打てない気がするので、大丈夫では…?>矢 | ||
![]() | 94 バニー 結良 2018/12/11 07:16:01 ▼ | |
だいたい第三陣営が人気になってるからね〜 | ||
![]() | 95 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:16:06 ▼ | |
遺言って毎日書き直せますよね? | ||
お忍び ヴィクトリアは遺言を書きました。
「ほぼ素村です。
ヴィクトリア」
「ほぼ素村です。
ヴィクトリア」
![]() | 96 ファン 紅 2018/12/11 07:16:38 ▼ | |
やあ。 | ||
![]() | 97 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:16:38 ▼ | |
いつでも書き直せるよ〜 | ||
![]() | 98 文学部 麻耶 2018/12/11 07:16:41 ▼ | |
>>95 死ぬ(公開される)までならいつでも何度でも | ||
![]() | -7 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:16:52 ▼ | |
>>18 この人の所為で僕は…!!! | ||
![]() | 99 バニー 結良 2018/12/11 07:16:59 ▼ | |
毎日と言わず一日何回でもどうぞ | ||
![]() | *1 ファン 紅 2018/12/11 07:17:03 ▼ | |
やあ。 | ||
![]() | /2 看護師 小百合 2018/12/11 07:17:16 ▼ | |
よろしくおねがいします。 キャバ嬢さんの役職は多分私がシューッってやってピッて希望した役職っぽいな。 実質希望通り! | ||
![]() | 100 ファン 紅 2018/12/11 07:17:23 ▼ | |
魔法使いはよ! | ||
![]() | -8 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:18:06 ▼ | |
あ。この役は最後まで生きてないとダメなんだねー | ||
![]() | 101 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:18:19 ▼ | |
ありがとーう! 恨み言は常時、更新ですよ!! | ||
看護師 小百合は遺言を書きました。
「現時点では無能です。(2日目)
4日目以降、毛が生えた程度に能力発揮できる村側でした。」
「現時点では無能です。(2日目)
4日目以降、毛が生えた程度に能力発揮できる村側でした。」
情報学部 範男 は ノーマル ガチャをまわします。
レア★★★ 【蓑亀】を手に入れました。
![]() | 102 文学部 麻耶 2018/12/11 07:18:37 ▼ | |
>>93 裏切者とアイドル・リア充・黒幕ほか1/4役職は開始時に自動で対象が決定するからどうなのかな〜って | ||
情報学部 範男 は課金します。
情報学部 範男 は プレミアム ガチャをまわします。
レア★★★ 【山羊】を手に入れました。
囚人 要は遺言を書きなおしました。
「盗まれた手紙の話
坂口安吾
+目次
あの人間は気違だから精神病院へぶちこめなんて、とんでもない。神様は人間をお裁きになるけれども、神様が神様をお裁きになつたり、あの神様は気違だから精神病院へぶちこめなどと仰有おっしゃることはなかつたのである。
一
ある朝、兜町のさる仲買店の店先へドサリと投げこまれた郵便物の山の中で、ひときは毛色の変つた一通があつた。たいへん分厚だ。けれども証券類や印刷物とは関係のない様子に見える。
ペン字のくせに一字一画ゆるがせにしない筆法極めて正確な楷書で、なにがし商店御中とある。で裏を返してみると、これまた奇妙である。
なにがし区なにがし町——といつても、つい先年まではさしづめ武蔵野などと言つてゐたあたりの、なにがし精神病院内、なんのなにがしと書いてある。
はて面妖なところから便りがとどいたものである。精神病院のお医者さんやら小使でも株をやらない筈はないが、爆撃機のお腹の中の爆弾ほどまる/\ふとつて重たいのが気にかかる。そこで勇士がひらいてみると、ザッと次のやうな大意のことが書いてあつた。
二
自分は精神病院の入院患者ではあるけれども、必ずしも精神病者ではない。もとよりいつたん精神病院の患者として入院したからには、曾かつて精神病者であつたことは明白であるが、現在は既に全治してゐる。
それにも拘らず、なにゆゑ今もなほ入院してゐるかと言へば、自分は公費患者であつて、たとへ医師が自分の全快を認めても、引受人が現れない限りは、医師並びに自分の意志によつては法規により退院することが不可能なのである。
自分には母があつたが入院中に死亡し、兄と姉があるけれども、この二人は自分の引受人となることを好まない立場にある。従而したがって、自分は既に全快しながら、しかもなほ精神病者として永遠に入院生活を続ける境遇に置かれてゐるわけである。
然し、自分は既に精神病者ではないから、病院内に於ては、三分ぐらゐは患者として、残りの七分はほぼ同室の患者達を看護する者の立場として、生活してゐるものである。又、患者達の懇話会の幹事をやり、その会報の編輯などもやつてゐる。
一般に全快した公費患者は看護人に採用されるのが普通であるが、病院には予算があり、定員以上の看護人には給料を支払ふ能力がないから、自分などほぼ看護人と同じ仕事をしてゐながら、正式に看護人では有り得ないのである。それゆゑ看護人ほどの自由はないが、医師や事務員の引上げた後なら、同僚即ち看護人の理解によつて、非公式ではあるけれども外出できるし、縁日をぶらついてきたこともあつた。
尚、前記のやうに、既に全快しながらしかも入院生活を続けなければならないのは、ひとり自分だけの不運ではなく、公費患者の大多数が概ねこの宿命を負ふてゐるものなのである。
然らば精神病院に於て、つとに全快した患者達がどのような生活をしてゐるかと言へば、こればつかりは貴殿いかほど聡明多才であらうとも、御想像もつかないであらう。
元来が公費患者といふものは支給される食事だけでは栄養が充分でないから、栄養補給のために小遣を稼ぐ必要があるのである。そのために自分等は修養に費さねばならぬ貴重なる時間をさいて、封筒貼をやらなければならない。
とはいへ、そのやうな労務のかたはら、凡そ精神病院の入院患者ほど、自家の職業を病院内へ持越して、常に不断の修養につとめてゐる者はないのである。
或る者はすでに一万二千枚の長篇小説を書きなほ執筆をつづけてゐるが、一万二千枚ともなれば机上に積まれた分量自体がすでに充分瞠目に価するもので、作者はことさら分量の大に恬然たる風を装つてゐるが、過度に恬然としたがる風があるものだから、却つて分量の大のみ専一に狙つてゐるのではないかと疑ふ気持になる程だ。とはいへ、分量の大のみ専一に狙ふにしても一万二千枚ともなれば、充分敬服に価するものである。
一般に精神病院の入院患者は自発的に宗教に親しみ、仏教たるとキリスト教たるとを問はず、各なにがしの意見を所有してゐるのが普通であるが、彼等が教理に就いて所信を吐露し論じ合ふ時ほど彼等の姿に品格と光輝を与へるものは先づすくない。仏教に声聞しょうもん、縁覚えんがくといふ悟入の段階があるやうだが、一般に精神病院の人々は、自分の観察によれば、各自縁覚的な境地を所有するところの熱心なる求道者のやうである。
けれども中には特に非凡な宗教的境界に到入した人物もあり、彼は幾多思索の後、宗教の鍵はマホメットにありと信じるやうになつた。この男はすでに数年不便と不自由を忍んで独修書によつてトルコ語とアラビヤ語の勉強に没入してゐる。さうして昨今はトルコ語とアラビヤ語以外の言葉を用ひなくなつてゐるが、時々同室の人々に向つてコーランの教義を説き明すことがある。トルコ語やアラビヤ語のことであるから自分に内容は分らないが、宗教の本義は言葉の中には無いから、何物かが分るやうな気がするし、自分は彼が純粋な信仰から必然的にトルコ語やアラビヤ語に走らずにはゐられなかつた内部の熾烈深遠なものを疑つてはゐない。
又或る男は——これは入院前園芸を業とし、特に温室栽培に専心従事してゐた男であるが、火力を用ひず専ら太陽熱を利用して温室栽培をなす研究をすゝめ、最近に至り、昼間太陽熱によつて温めた水を管に通して夜間の暖房に利用することを略ほぼ完成した。この施設によれば全く燃料が不要であるから、農家の利益は甚大である。
又或る男は釣針の研究に没頭してゐる。彼はあらゆる魚の習性に就いて該博なる智識を有してゐるが、目下彼の研究題目となつてゐるのは、あらゆる魚釣に可能な唯一本の針の発明といふことである。勿論鯨と目高を同一の針で釣ることができるかと皮肉な問ひをなす者は言を弄ぶこと容易にして事を為すこと至難なる所以を知らざる愚者にすぎない。彼はこの発明のために、釣針よりも、先づ多くの魚の習性に就いて更に研究をすすめる必要があり、多くの魚を飼育する必要にせまられてゐるが、それが全く不可能であるため、自暴自棄におちいり、「魚よ、なぜ水中に棲むか」といふ叫びをあげて泣き叫ぶ発作に襲はれることがある。
ところで、然らば自分はだうかと言ふと、自分は専門学校で国文学を学んだが、当時就職難であつたため、ある私設鉄道の従業員となり、零細な日給で働いてゐるうちに、やがて患者としてこの病院へ送られてきたもので、当年三十三才、すでに病院生活は足掛六年である。
自分がなぜこの病院へ送られて来たかといふと、当時自分は東京近郊の小さい駅の改札をやつてゐたが、改札掛といふものは専ら客の手と切符のみ見てゐる職業のやうではあるが、案外乗客の顔も一々見てゐるものなのである。
然るに自分はある時自分の特異な能力を発見した。といふのは、自分は乗客の手と切符のみ注目してパンチを入れながら、未だ一瞥も与へぬうちに乗客の顔がちやんと分つてゐることに気付いたからである。で、自分はこれを確めるために自分の顔をあげてみる。と、まさしくふッと自分の前を掠めて行く乗客の顔が果して想像の通りなのである。しかも乗客は自分にそんな能力があることを知りもしないし、現にその能力の実験に供されてゐることなども気付かないから、自分の関心にも拘らず全然無関心な顔付であることが大変気の毒でもあるし、哀れなものにも見えるのである。
然し、これだけのことで済めば話は至極簡単で、自分はこの病院へ送られずに済んだ筈であつた。
ところが、やがて、自分の能力は次第に分裂し、分裂が同時に生殖であるといふアミーバ的発展過程をとりはじめた。
即ち、ある日、自分は一乗客の手によつて、その日の天候の急変を予断した。といふのは、ある乗客の手が自分に向つてそれを語つてゐたからで、数ある乗客の手のうちには、そのやうな予言を帯びた手のあることに気付いたのである。
又、或る乗客の手には火災や地震を予言してゐるものもあり、政治や相場の変動を物語つてゐるものもあつた。又、或る時自分は、或る乗客の手が自分に向つて、直ちに池袋まで駈けつけ、豊島師範学校の前まで行き、そこで踵をめぐらして戻つて来なければならないといふ自分に課せられた宿命を暗示してゐるのを読んだ。やむを得ないことであるから、自分は駅長のところへ行き、二時間の外出を許してもらつて、命じられた運命を果さなければならなかつた。
自分はこのやうにして乗客の手から次第に多くの予言を読むようになり、時には殺到する雑多な予言の応接に疲れて、視覚を厭ふことがあつた。
そのうち最後の時が来た。
第一の予言を読んだのはその日の朝で、この時乗客はランドセルを背負つた小学校の女生徒であつた。婦女子の生長は草花の如くすみやかで又妖艶なものであるから、もう年頃のことと思ふが、自分の脳裡にとどまる幼顔の記憶によれば、近頃あまたの青年がその面影に胸を焼きとかく業務を怠りがちのことであらうと愚考してゐる。自分はその可憐な手に株式市場の一混乱期を読んだのである。貴殿もとより六年前の大変動をお忘れの筈はないと思ふが、それが歴然物語られてゐたのであつた。
然るにその日の午後に至つて、ここに卒然天地の処を変へるが底ていの第二暗示を読まなければならなかつた。
この時の乗客は四十がらみの極めて貧相な洋服男で、恐らく銀座の雑踏で再会しても一目で見分けがつくと思ふが、南洋系の縮毛にユダヤ系の鷲鼻をもち眼付は狡猾で手足の相は猿猴えんこうめき好色無恥であつた。
自分はこの男の爬虫類の頭部めいた指頭から甚だ好ましからぬ思ひと共に切符を受取るに際して、ここに図らざる宿命の指令を読んだ。即ちそれはお前の一生を決する時が近づいたと予告してをり、朝の予告とつながる関係が物語られてゐるうへに、自分の浮沈がそこに賭けられてゐることを明確に示したものであつたのである。
宿昔青雲の志、蹉※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)さだたり白髪の年といふが、自分の如き凡人は半生に至らずして既に見すぼらしく貧苦にやつれ日夕諦らめに馴れた心を無二の友としてゐる。三円の昇給にすら不馴れな心であるから、このやうな予告によつて心に受けた震駭しんがいが異常なものであることは理の当然で、まるで眼を焼かれたやうな気持であつた。
然しながら狐疑すべきところはないから、夕方六時に交替すると、自分は直ちに実行にかかつた。
自分は当時兄の家に泊つてゐたが、兄は小さな盛り場に食料品店を開いてゐる。
自分は兄が銭湯へでかけた隙に、店と奥にあるだけの現金を掻き集めて飛びだした。確信ある投機であるから悔いも怖れもないのであるが、自分の兄は天性吝嗇である上に苦労性で、或る時兄の蟇口から三十円抜取つた曲者があるといふので、当時自分の通学中の学校へ現れて自分の動勢を偵察し、自分は危く停学処分を食ふところであつた。おまけに三十円は一文も使はぬうちに取返されてしまつたのである。
現金はザッと百七十円なにがしあつた。自分は株といふものに全然経験がないのであるが、裸一貫とか七転び八起きといふことが投機社会には特に言はれることださうで、裸一貫の自分には心強いことであつたが、それにしても億万の結果を望む心にとつて唯の百七十といふ数は決してゆとりを与へてくれるものではない。
更に資本が得たいと思つて、まだ八時といふ宵のうちであつたを幸ひ、十二時頃まで八方自動車を走らせて多くの知人を廻つて歩いた。自動車代が二十何円かかつたのに、自分の得た金は三円なにがしであつた。
ここに自分は一生一代の失敗をした。といふのは自分の修養の足らないせゐで、思ひだすだに自卑のため消える思ひがするのであるが、自分は自動車をぐる/\走廻したあげく、最後に新宿の酒場の前で車をとめた。これが一代の過失であつた。
この酒場で自分はひとりの美女を見た。さうして一気に恋着した。
とは言ふものの、このとき自分の第一感は言ふまでもなく、今に残る印象によつても、この女はあらゆる点で妖婦と称ぶべき女であつた。しかも一流の妖婦ではない。高邁な心なく、教養の閃くものなく、ただ徒いたずらに虚栄のみ高くて金銭に汚く、本能的に多淫であつて禽獣の快楽を一代の理想としてゐる。世間には青春と美貌を持ちながら好んで金持の老人の相手をしたがる女があるが、この女がそのやうな一人であつた。
試みにこのやうな女が年老いて容色衰へた場合を想像するに、その醜怪に堪へかねて嘔吐を催す思ひとなる。自分は生来の趣味として孤独の中に詩美を感じるものであるが、この種の妖婦が肉体の魅力を失ひ老醜のみの残骸となつて世に捨てられた場合のみは、流石の自分も跣足はだしとなつて逃げだしたい。支那の伝説に鴇ホウといふ妖鳥がある。この妖鳥は雌のみで、雄がないと伝へられてゐる。生来多淫で衆鳥と交ることを求めるので、鴇の栖すむ山には他に鳥影がないといふ。支那では鴇を老妓にたとへ、又、老妓を鴇にたとへるのだが、自分はこの女を一目見て同時に鴇の化身を感じた。
もとより贅言を費すまでのことはなく、この種の女は内面の美に全然生来の色盲であるから、自分を一目見ただけで軽蔑した。自分のテーブルへ寄付かうともしなかつた。けれども自分は恋着せずにはゐられなかつた。
底の見え透いた虚栄心も虫酸が走るし、認識不足の糞度胸やら毒だらけの肚の中が無性に不潔で腹が立つたが、横ッ面を殴りつけてやりたいほど、可愛らしさがこみあげるのである。
そこで自分は札びらを切つた。たうとう女は自分のテーブルへやつてきた。さうして益々軽蔑を露骨に見せて、そんなに呉れたいなら貰つてやるといふ手つきで、横の方を向きながら、帯の間へお札を突つこんでゐる。
すでに自分はこの女を征服したも同然で、自分はせせら笑つてゐる女に向つてその悪質な性格や多淫な心を罵倒しながら酒を飲んだ。虚栄の心に満たされることなく、愛する者には愛されず、呪咀に疲れて老人から老人を転々し、末は夜鷹に落ちるまでの女の径路を微細に描破予言しながら、ことごとく溜飲を下げて、札びらを切つたのである。
自分が気付いたのは翌日警察の中であつた。さうして、そこから、直ちに精神病院へ送られてしまつたのである。
今にして当時を想起すれば、心気忽ち痩せ果てて消ゆるが如き羞恥を感ぜずにはゐられない。一代の繁栄を決すべき大事の瀬戸際に正体もなく酔ひ痴れてしまふとはこの上もない修養の不足で、省て慚愧ざんきに堪へざるところであり、精神病院へ送られて然るべきものであつた。
従而自分は入院ののち、一にも二にも修養に心を砕いた。
とはいへ何分不自由な身である。さきにもお話したやうに、与へられる食事では栄養の保持ができないから、毎日封筒を貼つて小遣を稼がねばならない。最近は熟練したので数時間で十銭ぐらゐ稼げるけれども、二銭の餅菓子で栄養を補給したり、稀には一本一銭で売りにくるバットを吸つたり、そんなことをした上で書物を買ふのは容易ならぬことでもあるし、又それを読み修養につとめる時間といふものも決して充分ではないのである。
けれども自分は「奥義書ウパニシャット」を読んだ。読み、且、思索を重ねた。自分は生来の鈍根で見得けんとくするところ甚だ浅薄な男であるが、それでもだうやら梵ぼんの本義をやや会得することが出来たやうである。また数論哲学や勝論哲学、ミーマンサーとか瑜伽ゆが哲学など婆羅門ばらもん秘奥の哲理に就いても思索を重ね、つづいて仏教の本義を会得したいと勉めてゐるが、数年の思索の結果阿頼耶識あらやしきも理解し得たつもりであるし、起信論の真如や龍樹の空観も略ほぼ体得なし得たと信じてゐる。最近は又、碧巌へきがん、無門関むもんかん等について日夕坐禅に心掛け、いささか非心非仏の境地をのぞいた。
諸々の哲人に比すれば赤面の至であるが、ともかく一応の修養は積み得たと思ふ。すくなくとも、一代の繁栄を決すべき大事の際に、不覚にも酔ひ痴れてしまふやうな修養の不足は再び見ることが出来ない筈である。
さて然らば自分の特殊な能力は入院後だうであつたかと言へば、病院は鉄道の駅ではないから自分はもとよりパンチを所有する筈がないし、かりにパンチがあつたとしても患者を乗客に仕立てて切符を切るといふわけにはいかない。
とはいへ自分は鉄格子の部屋の中に幽閉された身の上であるから、株式の予言が出来ても、だうにもならない次第なのである。必要は発明の母と言ふが、予言の如き霊感でも亦その通りで、自分にその必要がなかつたから、自分は長日月霊感を忘れた日々を送つてゐた。
然るに自分は昨今既に全快して常人と変りがないから、生憎病院の予算の都合で就職不可能ではあるけれども、実際は看護人同様の仕事をする身となつてゐる。従而、公然と行ふことは出来ないが、暗黙の了解によつて外出も出来るのである。
それゆゑ予言の能力も利用のできる見込がついてきたわけで、もとより天賦の能力であるから、自分にこのやうな意識が生じると共に、予言の能力も忽ち復活したのであつた。
のみならず、今回の能力はすでに環境に順応してパンチも乗客も不要な様式で復活したばかりでなく、従前の能力は専ら乗客の手によつて他動的に暗示を得たにすぎないのだが、復活した能力は何時いつ如何なる場合でも与へられた課題に対して自発的に特異なる心境を誘導することにより自在に霊感を発揮し得るところまで進んでゐた。
自分は昨年運動会の当日が生憎雨天であることを十日も先に予言して、当日の諸準備を延すやうにと進言したにも拘らず、人々が耳を藉かさなかつたがために、台所その他に大損をまねいたことがあり、又、病院内で起つた一事務員の重要な失せ物を霊感によつて発見し、その後も屡々しばしばかかる場合に能力を発揮して、人々の心服を買つてゐる。
然るところ、数日前、正確に申上げれば×月×日のことであるが、はからずも自分は重大な霊感を得て、ここに再び一代の浮沈を決する大事の秋ときが近づいたことの予告を受けた。
即ち×月×日の夕刻のことであつたが、自分はそのとき毎日の習慣通り封筒貼をやりながら、ふと顔をあげて鉄格子の外を眺めたのである。
そこは病院の裏庭であつたが、こんなところは庭掃除の小使かオチャッピーの看護婦共がキャッチボールでもする時でなければ殆んど人影のない筈の所で、どこへ通ふ通路にも当らないから、まして此処を急いで通らねばならないわけは一向なささうな場所であるのに、今しも一人の若い医者が散歩といふには忙しすぎる足どりで、せつせと横切つて行くのである。
オヤ/\あれはたしか内科のなにがしさんだなと分つたが、と、それと同時に、自分は首を突延すだけでは足らなくなつて、思はず立上つてゐたのである。
といふのは、この年若いお医者さんはそんなこととは一向知らずせか/\と自分の視界から歩き去らうとしてゐるのに、彼の霊気は慌ただしく頻りに何事か自分に向つて叫んでゐる。
自分は窓際へ駈寄つて鉄格子から覗いてみた。さうして自分は次の言葉をききとることが出来たのである。
即ち、株式市場に又不測の変動が近づかうとしてゐる。さうして貴公の一代の浮沈を決する秋が再び近づいてゐるのである。貴公もとより六年前の大失敗を銘記してゐるに相違ないが、そのために若干の修養も積むことが出来たわけで、貴公のためには又とない試煉でもあつた。六年間の修養が決して徒爾とじではなかつたことを神かけて示すべき日が近づいたのである。云々。
鉄格子の内側の人物が二丈もある塀の外側へ出る感動といふものは多感な少年が外国旅行に船出する歓喜によつても類推できない程であるから、この時自分の感動が異常なものであつたことは先づ筆舌に尽しがたい。
自分は深甚な感動のために、勇壮快活になるよりも、むしろ著しく悲愴になり、陰気になつた。心は更に浮立たず、忽然として沈みこみ、異様な悲哀がこみあげてきた。
自分は鉄道の従業員になつた頃から、だういふわけだか涙が出なくなつたのである。激しく感動することは人並に屡々あつて、心も泣き、生理もたしかに泣いてゐるのに、だういふわけだか涙が全く出てこない。この時も自分は泣いたが、涙は流れてこなかつた。自分は心に堅く誓つた。立上るべき秋が来た。六年の修養。言はれる迄もなく、これを忘れてなるものではない。
歌舞伎の愁嘆場のやうなものが実際あつたらをかしなものだが、そのとき自分は愕然と鉄格子から外を覗いて阿呆のやうにぼんやりしてゐたものである。
ところがここに、かねて自分と親交あつた看護人なにがしといふ人があるが、この男が自分の背後へやつて来て、自分の肩をそッと叩いた。さうして自分に、だうしたね、大きな霊感があつたのぢやないかね、と言つたのである。
看護人なにがしはキリスト教徒であつた。尤も、キリスト教徒といふものが日曜日毎に牧師の説教をきいたり教会へ寄進したりしなければならないとすると、なにがしはこの範疇にあてはまらないことになるが、いはば、なにがしはキリスト教徒の殉教的情熱を我物とした苦業者のひとりであつた。彼の信条とする宗教は意識的に極度に思索が排斥されて、行ギョウが全てをなしてゐる。彼に向つて宗教論を吹きかけても、彼の返答をききだすことはできないのである。彼は徒に空論を拈弄ねんろうする代りに、患者達の汚い便所を黙々と洗ふ。それが彼の宗教であり、この地味な然し偉大な苦業者の行ギョウなのである。
自分は看護人なにがしの唐突な言葉をきいても敢て驚くことはなかつた。このやうな掛値なしの行者には全てが分る筈である。思索といふ貧しい智慧の実によつて積む修養と全てを行ギョウに代へた人の修養はすでに雲泥の違ひがあるし、又このやうに地味な行者は地味な奇蹟を持つものである。自分は敢て驚くよりも、やつぱり分る人には分るものだなといふ一種の安堵を覚えたものだ。
自分は彼の問ひに答へて、君の賢察の通り大きな霊感があつたのだと言はうとしたが、また感動がこみあげてきて、声がでない始末である。
そこで自分は言葉の代りに彼の手を執り、力をこめて握りしめたが、これまた感動がこみあげて、力がいつかな加はらない。とはいへ彼には通じるから、なにがしは頷いて、立去つた。
自分は看護人なにがしの友情によつて、若干の自由——然しこの大いなる不自由の中では莫大な自由——便宜を受けることが時々あつた。先にもお話したやうに、自分が時に外出することが出来たのも、主としてなにがしの友情のせゐであつたのである。然らば自分の外出がどのやうにして行はれるかと言へば、概ね夜の十時過ぎ、十一時前後、全病院がまつたく寝静つた後に於て行はれるのが通例で、理由の第一は自分が患者であるためよりも、看護人の夜間無断外出が既に抑々そもそも規則を犯すものであるからに外ならない。
而して、かかる深夜の外出で、自分に許された享楽が何物であるかと言へば、自分等は草深い田舎の道、特に畑の細い径を近道して、町はづれの、但し自分等の側から言へば町の入口のおでん屋で十銭の泡盛を飲むことなのである。
さて霊感に対処すべくあれこれ手段をねつてみたが、鉄格子に幽閉された身の上では全くもつてだうすることも出来ない。
何はともあれ外出するのが第一だから、全てを看護人なにがしに打開けて腹蔵なく相談するのが先決条件にきまつてゐる。
で、自分は看護人なにがしに霊感の重大なことを囁いて、猶予すべき場合でないから、早速今夜おでん屋へ走つて細かく相談したいむね申入れた。
もとより彼は諾いて、生憎その日は夜になると猛烈な豪雨になつたけれども、荏苒じんぜん時を空費するほど此の際危険なことはないから、十時すぎ、全病院の熟睡を待つて、自分等は豪雨の中へ走りでた。
自分は夜を迎へても未だ亢奮が持続してゐて、愈々おでん屋へ向つて走りでるといふ時には、又もや矢庭やにわにこみあげてきた感動で相当混乱したらしい。窓を打つ豪雨の音をきいただけでも容易ならぬ荒天がすでに分明の筈であるのに、晴天の夜と同じやうに下駄をはき、番傘を探しだして、さて出掛けようとしたものである。
なにがしは自分の手から番傘をとりあげて、下駄を脱ぐように命じた。それから彼の身支度と同様に着物の裾を股までまくらせ、そこで二人は跣足になつて豪雨の中へ駈けだした。
下駄などはいてゐようものなら何べん転がることになつたか知れないし、手とか足とか骨折したかも知れなかつた。番傘などは怪我するためにわざ/\刃物を持つやうなものだ。何と言つても一寸先も見えない暗夜で、畑の小径は平常無事に通れたことが不思議なぐらゐデコボコである。辷すべり放題に辷つた。事前にこれを察知したのは流石に修養のたまもので充分敬服に堪へないが、それでも自分は何べんとなくひつくり返つた。けれども激しい亢奮でむやみに胸が一杯だから、実のところ、自分は唯もう走るといふ無限の動作を意識しつゞけてゐたのみで、転んだことが記憶になかつた。
おでん屋へ到着してのち看護人なにがしにおや転んだやうだねと言はれ、泥まみれの手足や着物を指摘されて、成程さうかと納得した有様である。
なにがしはおでん屋の盥たらいを借りて自分のからだを洗はせてから、着物を洗濯してくれた。この親切は先にも説明した通りひとへに彼の殉教的情熱によつて一貫された犠牲精神の発露であつて、非凡な修養を物語る適例である。即ち彼はそれが可能なことであるなら将まさに死せんとする者と自分の命を取換へることも敢て辞せない人である。
斯様にして彼と自分は慎重討議を重ねたのち、ここに即ち貴殿に宛てて手紙を差上げることとなつたのである。
貴殿もとより充分御賢察のことと思ふが、精神病院の公費患者である自分に金のないのは言ふまでもなく、看護人なにがしは手当を加へて毎月三十円なにがしを貰つてゐるにすぎないのである。
自分に予言の能力はあるが、生憎これを活用すべき資力に欠けてゐることを、ここに率直に打開けて申さねばならない。
即ち自分は貴殿の資力を利用してこの霊感を活用したいと思ふのである。
とはいへ自分は儲けの割前をいただくに当つて、霊力と資力の割合に就いて、極めて謙遜な主張を持つにすぎないことを先づあらかじめ明瞭に申上げたい。
自分は儲けの一割とも又一分とも申上げない。
差当つて自分の熱望してゐるものは先づ自由、即ち鉄格子外の生活なのである。而して自由を我物とするには三百円の金がいる。即ち自分の求める所の割前はただそれだけに過ぎないのである。
又、看護人なにがしに就いて言へば、彼は常にその一貫せる殉教的情熱によつて専ら犠牲的精神の示すところを生きる人で、求むる何物をも持たない人、特に一文の金銭も求めてゐないが、礼儀として、自分と同額を与へていただけば満足である。
就いてはここにいささか内密な話があるのだが、先程申上げておいた通り、六年前自分が不覚の泥酔によつてこの病院へ送られる前夜新宿の酒場で見かけた妖婦があつた。
ありていに申上げれば、自分はまだこの女のことを忘れてはゐない。のみならず、思ひだしては胸に苦痛を覚える次第で、朝、昼、夜自分は毎日思ひだすのが習ひである。
自分は自由を我物として、早速新宿の酒場へ駈けつけ六年間の愛慾を金によつて復讐したいと考へてゐる。公衆の面前でこそその浅薄な気位を持ちこたへてはゐるものの、裏面に於ては、金のためには犬鶏の真似も辞さない筈の女である。かやうに復讐を遂げ終つて、自分はここに六年間の試煉を終ることになる。
就いては復讐の費用として、特に自分にだけ金二百円の増額をお願ひしたいと思ふのである。即ち自分の求めるところは合計五百円のわけである。
而して右の分前は貴殿の儲けが何億円であらうとも不変であることを誓約する。
自分等は×月×日午後十一時より十二時のあひだ、なにがし区なにがし町のなにがしおでん屋に於て貴殿をお待ち致してゐる。なにがしおでん屋の所在は地図を同封致すから、それによつて辿られたい。
尚自分等は当日どのやうな風雨であらうとも貴殿をお待ち致してゐるが、自分は細かい碁盤縞の浴衣に鉄ぶちの近眼鏡をかけた五尺五寸三分の痩せた男であり、看護人なにがしの当夜の着衣は明かでないが、なにがしは年齢三十六才、ずんぐりと太つた五尺二寸ほどの色浅黒い男である。
然し尚念のため、目印として自分の胸に樫の葉をつけてゐるから、それに向つて話しかけていただきたい。若し又豪雨で着衣を洗はねばならないやうな場合には、裸体のこととて胸に樫の葉のさしやうもないが、そのやうな場合には左手に樫の葉をつまみながら泡盛を飲んでゐるから、そのやうな様子の男に話しかけていただきたい。
最後に蛇足ながら申添へるが、貴殿が巨富を得られて後に始めて割前をいただくもので、当日報酬をいただく意志のないことを一言お断り申しておく。云々。
三
以上が手紙の大意であるが、これが小型の原稿用紙に、ペンでもつて、一字一画ゆるがせにしない正しい楷書で最後まで乱れを見せず清書してある。
僕が大意を写しただけで丁度三十枚あるのだから、もとの手紙がどんなに尨大ぼうだいなものであつたか充分御理会のことと思ふ。
これだけ長文の手紙の中で、文字の書誤つて直したところがたつた六箇所あるだけである。ところで書誤つた六字といふのは丁重無類な桝形ますがたに塗りつぶしてあり、その上にお役所の文書と同じやうにはんこを捺して、それから訂正の文字が加へてあつた。
さう言へば手紙の最後の署名にも、又封筒の裏面にも、日付の下になんのなにがしとあり、やつぱりはんこが捺してある。
兜町の豪傑連も驚いた。
そのうちに兜町全体がひつくりかへした蜂の巣のやうにわん/\唸る時がきて、もはや一人も気違の手紙のことを思ひだす者がなくなつてゐた。手紙はなにがし商店の誰かの机のどこかしらに投げだされてゐた筈である。
ところが一日の騒ぎが終つて、さて人々が気がつくと、だうしたことだか手紙がどこにも見当らない。
草を分けても探しださねばならないやうな手紙ではなかつたから、それつきり手紙のことはみんなが忘れてしまつたのである。
気の毒なのは手紙を書いた御人である。考へてもみなさい。封筒を貼つて一日に十銭稼いで、二銭の餅菓子で栄養を補給したり、たまには一本一銭のバットを吸つたり、さてそのうへで婆羅門の秘巻を買つたり、あげくの果には一杯十銭の泡盛も飲んで、それがみんな一日十銭の稼ぎの中から割出すのだから、又そのうへに何十枚の原稿用紙、べた/\貼つた切手の値段ときた日には、それだけでもう何百日の稼ぎに当るか分らない。血が滲んでゐるなどといふのは、かういふ時に使はなければならないのである。
手紙の書写にしたところで、筆耕のまる一日の仕事といふのが四五十枚のものだといふのに、第一どんな几帳面な筆耕でも一字一画筆法正しい楷書で書くといふ者はない。
思ふに手紙を書きあげるまでまる/\数日かかつた筈で、荏苒日を空むなしくすべからずなどと言つて豪雨の最中おでん屋へ駈けつけてゐるほどだから、その翌日には早速手紙の執筆にとりかかつたに相違ない。手紙の中には、この重大な霊感あつておでん屋へ駈けつけた日の記憶すべき月日が記してあるのだが、それが丁度数日前の月日に当つてゐるのでも這般しゃはんの苦吟が分るのである。
その数日といふものは全く手紙にかかりきりで、封筒も貼れなかつたに相違ない。さすれば栄養の補給もできず、バットにありつくこともできない。かへすがへすも気の毒なことばかりである。
全くもつて株屋の心臓ぐらゐお話にならないものはないのである。ここにひとつの教訓を胆に銘じる必要があるが、全くの話が、金もないのに夢株屋へなど手紙をだすものではないのである。
四
然しいかほど霊気のこもつた手紙でも、相手にされないからといふので羽が生えて飛んで帰るといふことはない。
盗んだ男がゐたのである。
「いやア。こんちはア」とかう言ひながら、四十五六の年配で鼻ひげなども生やしたくせに、御用聞と同じやうな笑ひ方して、左様、丁度その日の午頃ひるごろであつたが、なにがし商店の店先へ顔をだした男がある。
深川区なにがし町なにがし番地オペラ劇場主人なんとかの草石といふ雅号を刷つた大型の名刺を所持に及んでゐる、何のためだか知らないが、かうやつて時々なにがし商店の店先へ顔をだすのである。それから勝手に店内へ上りこんで、自分の小屋へしよつちうかかる浪花節の口調でもつて時局や外交問題などを一席弁じ、いつのまにやら又消えてゐる。
この先生が手紙のことを小耳にはさんで、これこそ天の与へたものだとそッと懐中へ忍ばせてしまつた。
さて人気のないところへ来て、何十枚かのこの手紙を笑ひ声ひとつ立てずに読み切つたのがこの先生で、再び手紙を懐中深くをさめてから、株屋なんてえものはこれでお金が儲かるのだから不思議だね。それにしても運てえものはやつぱり頭の問題だよ、などと呟いてゐる。
つまり相手が気違だから笑ひごとではないのである。正気の易者の予言などをかしくつて信用できるものぢやない。かういふ先生の言ひぶんであつた。
手紙の文面から判断しても、流石に修養があるだけに、この気違は却々なかなかきつぷの良いところがあり、謙遜の美徳など心得てゐる。内密な話であるがと切出して自分だけ二百円余計稼いでゐるあたり充分呼吸をのみこんでゐて駈引は相当達者なものであるが、それにしても女を口説く資本モトデだけで沢山だといふ心掛はこれまた至極さつぱりしてゐて見上げたものだし、二百円の金を握つて六年前の新宿さして駈けつけようといふ心根もほろりとするほど味がある。
同じ目印をつけるにしても、カーネーションの花をさすとか、左の手に大根を握つてゐるとか、さういふことは言はないで樫の葉といふのが渋い。
先づ試みに明日の予想でもさせてみて、充分予言の実力を験したうへで大きな勝負にかかるから、こつちの方は悪くいつても二日か三日の閑ひまをつぶしただけの損で、なに、それだつて、くだらぬ寄席で欠伸あくびするよりましなぐらゐのものである。
さてここにたつたひとつの心配といへば、この気違が泡盛飲むといふことだが、こればつかりはいかさま婆羅門の秘巻によつて修養つんだ御人であらうが、なんのはづみで暴れだすか知れたものではないのである。
気違は怪力無双であるといふから突然ポカリと張りとばされて相当こたへることであらうが、それにしても二つか三つ殴られるうちには逃出すことが出来るであらう。
五
×月×日の夜がきて、深川オペラ劇場主人は指定のおでん屋へ出掛けて行つた。
いかさま町も愈いよいよこれが外れである。そこの裏からもうひろ/″\となだらかな起伏を流した畑になる。小便するのに裏口あけて一足でると、頭の上で玉蜀黍とうもろこしがガサ/\と鳴り、畑は一面虫の声で、どこまで続いてゐるやら分らず、遠方に黒い森影が見える。
屋台店にやうやく毛の生えたやうなおでん屋は、それでも羽目板にハゲチョロのペンキなど塗り、一押し押すと圧つぶれるぐらゐ小意気な角度に傾いてゐる。
まさしく居る。——をりから星の降るやうな明るい夜で着物の洗濯する必要がなかつたから、なるほど胸に樫の葉をさした御人が、泡盛のコップをひとつづゝ前へ並べて、ただ黙然と居並んでゐる。
いや、どうも。深川オペラ劇場主人はことのほか初対面の挨拶にかけては自信があつて、につこり笑へば鼻ひげまでにこ/\笑ふといふ程だから、婦人選挙権獲得同盟の会長さんでも怖くはないと言ふのだが、この時ばかりはほと/\勝手が分らない。
こつちも泡盛のみながら先づおもむろにといふ手もあるが、ここのところで一手違へばポカリとくるのが目に見えてゐるところである。
「失礼ですが」と、ものの四尺ほど離れたところで——もつと離れてゐたいのだが、これ以上離れるためには外へ出るより仕方がない。で、彼は先づ何よりこれが大事だから、につこり笑つて、それから声をださうとした。
と、鉄ぶちの眼鏡の奥からこれを黙然と観察してゐた樫の葉の御人が、一足先にすッと立つて、西洋の貴族ならかうもあらうかと思はれるやうな、首をいくらか斜にして、首から上の部分だけで極めてやはらかくお辞儀をした。
「お待ち致してをりました」
樫の葉の御人は静かな声だがハッキリ言つた。
動作は極めて落付いたもので、お辞儀にしても首ぐらゐしか動かさないのに、不思議にやんわりとした優美な線を描きだし、品が良く、充分礼儀を失つてゐない。
待人を迎へる顔付なども、田舎の人のスットンキョウな喜びやうもしてゐなければ、都会風に無理をしたお愛想笑ひもしてゐない。どちらかと言へば利巧な人よりも利巧なぐらゐ冷静で、どことなく憂ひの翳をほのかに秘めた幽かな笑ひを浮べてゐる。これが美女の顔であつたら、まさしく古今の名画に残る笑ひのひとつで、憂愁に神秘を重ね、なにかほの/″\とした人の世の悲哀の相を漂はした笑ひなのである。
愈勝手の分らないことばかりである。第一この御人の顔付はげつそり痩せ細つてゐて、なるほど栄養の補給が余程足りないことなども、充分納得できるけれども、ひとつには高邁深遠な精神が無駄な肉をそぎとつたやうな痩せ方で、何かかう西洋のお偉い人の、エマヌエル・カントとかエドガア・アラン・ポオとかいふ、さういつた哲人詩人の味のある華車きゃしゃで聡明で刃物のやうな顔付である。
深川オペラ劇場主人は人の顔付を判断して咄嗟にこつちの言葉使をきめてしまふ男であつたが、この時ばかりはてんで訳が分らないので、ただもう盲めつぽうに、いと丁重にお辞儀してゐる。
余所目よそめにも深川オペラ劇場主人があんまり面喰つてゐるものだから、樫の葉の御人がにつこりと笑つて、口を切つた。
「失礼ですが、この御用件の方でせうね」
樫の葉の御人はかう言ひながら、胸にさした樫の葉をつまみとり、これを深川オペラ劇場主人の鼻先へヒラ/\させて、ネ、これでせうねと頑是ない子供に物を言ふやうに、目の中へにつこり笑ひこむやうな親しい笑ひをしてみせる。
深川オペラ劇場主人はことごとく恐縮して、額や首筋をハンカチで拭き、それから扇子をとりだした。
「いや、どうも。これは甚だおそく参上致しまして」と彼は吃つた。「このたびは御手紙をいただきまして、実はもう早速お住居の方へ参上致さねばならない所でありましたが、却つて御迷惑かと遠慮仕つかまつりましたやうな次第で、まことにもつて御親切御丁寧なる御手紙で、一同ただもう感激致してをります」
「こちらこそ突然失礼千万な手紙を差上げて恐縮に存じてをります」
と、樫の葉の御人は一礼したが、まだ指先に樫の葉をヒラ/\させて、時々自分の頬へ当てたり、かざしたりしてゐる。
「ではお掛け下さいませんか。こちらの方は手紙にも申上げておきました同僚のなにがし君です。幸ひ、ほかにお客もありませんし、夜もおそいやうですから、失礼ですが早速用談にうつらせていただきたいと存じますが」
「これはだうも恐入ります。わたくしから左様お願ひ致さうかと存じてをりましたところで。実のところ、席を変へて一献差上げなどしながら充分に御高説拝聴させていただきたいと斯様申上げたい所ではありまするが、生憎のお時間で。いづれ又改めて新宿へなとお供させていただくことに致しまして、本日のところは。おい、泡盛を三つ。それから何か肴を。なに、何でも出来るものでいいが、栄養の豊富なものを三人前」
と、深川オペラ劇場主人は坐直すわりなおして、腹にひとつ力を入れた。今しがた夕めし食つてきた筈であつたが、さつきから、だうも奇妙にお腹のすいた感じである。笑ひごとではない。気違に押切られては目も当てられない話なのである。
六
「遠路わざ/\御足労下さいまして心苦しいほどに存じてをります。失礼ですが、あなたがなにがし商店の御主人でせうか」
「左様。わたくしが経営致してをります。まだ駈出しのことで、とても一流とは参りませんが、爾今じこん宜しく御後援、御助力のほどお願ひ申上げます。御手紙拝読致しました時は、この、何と申しますか、深く感動致しまして、これは容易ならぬ大事であると斯様に考へて店の者にはまだ秘密に致してあります。わたくし実は丁度この一週間ほど前から痔を悪く致しましてな。好物の酒も控へねばならず、歩行にも一寸不自由で、乗物に揺られますのが又苦痛といふわけで、然し今宵は一代の繁栄を決する大事の秋ときで人まかせには致しかねるところから、かうして出向きましたやうな次第で。充分にお相手もできず、不調法は特にお許しを願つておきます」
「では早速お話致しますが、先程なにがし君とも相談して僕達の考へをまとめたばかりの所ですが、先日差上げた手紙には、予言の場所、方法などに就いては申上げてありませんでしたね」
「なるほど。たしか、そのやうでしたな」
「あの手紙にも申上げてある通り、予言はあなたの御指図に順したがつて、すぐこの場ででも、また何処ででも出来ますが、霊者にも気組の相違といふものがあつて、気組によつて霊感の感度にも深浅の有ることは疑ひ得ない事実です。哲学者の思索、詩人のインスピレーションでも、その時の気組や調子によつて、思索の結果や作品の出来に深浅上下があることと丁度同じ理窟になります。このやうに申しますと、何か僕の霊感が怪しげなものに聞えますが、さういふ不安は有るべきものではないのです。つまり霊者とは申しましても、人間であつてみれば、その日の調子や気組によつて出来不出来はまぬかれないもので、たとへば気組の劣つた日は、あすの天候を予言するにしましても、さしづめ新聞の天気予報と同じやうに晴雨の別を感じるぐらゐに過ぎないものです。調子も高く気組の張つた時の予言は、何時何分頃にポツ/\来て、何時何分頃に霽はれまを見るが又何時何分にはドシャ降りになつてしまふ、然し何時何分頃には小やみになつて何時何分に又ドシャ降りにもどるけれども結局何時何分ごろには上つてしまふ、僕自身それまで細かく知りたい意志は微塵もないのに、目のあたりパノラマに向つてゐるやうに次々と勝手に分つてしまふのです。気組の高い日といふものは万事がさうで、もとより株の予言にしても例外なく同じことです」
「成程々々」
「僕は今ここにかうして極めて平凡に日常普通の心持であなたと話してをりますね。勿論このやうな日常普通の心持には、武人が戦場に望むやうな気組といふものがある筈のものではありません。では、このやうな日常普通の心持から予言が出来ないものかと言へば、かうしてお話してゐるやうな手軽さではいきかねるかも知れませんが、もとより霊者にとつて霊力は偶発的ではありませんから、今でも、ちよつと気組を改めて特定の精神状態を誘導することによつて、直ちに霊感を呼ぶことは決して不可能ではありません。然しながらそれは唯一応の霊感で、明日の天候は晴れであるとか雨であるとか、その程度の大ざつぱな予言しか出来る筈がないのです。真に怖るべき予言、よくもここまで分るものだと僕自身驚くやうな高度の霊感は、唯一応の霊感とは全然異質に見えるほど照見無礙むげ玄妙千里を走るが如き概があります。全身全霊ただ電気とでも申しませうか、その時は僕の全部が眺める目、眺める鏡、眺める機械で、同時に僕の全部が又そつくりひとつの動く絵で、即ち次々と展開する未来図のパノラマに外ならぬのです。いはば活動写真を写す技師が僕であり、幕に映る活動写真が僕であり、それを眺める見物人が僕であります。すべてが渾然として一分の隙もなく、唯ひとつの僕といふ霊気、あるひは電気なのですね」
「いかにも/\」
「宿縁と申しませうか、このたび縁あつて——仏教では縁といふものに理外の理、宿命的な義理を与へて尠すくなからぬ重要なものに扱つてゐますね。かうしてあなたにお目にかかり膝つき合せて語合ふことが出来まして、又、あなたの御援助によつて一生の大事を決することもできるといふ、これは深い縁であらうと思ふのですが、従而、このたびのことに就いては、自分の気組といふものも普段のものではないのです」
「いかさま。さうでせうとも」
「けれども気組と申しましても、たとへば詩人が机に向つて俺は傑作を書いてみせるぞといくら一人力んでみても、気組だけでは※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の卵のやうに易々傑作を生みだすわけにはいきません。気組の力を生かしてそれを傑作にまで発展せしめるには、それに気合といふものが重つて調子が合ひ、全てがひとつのパノラマとなつて走りださねばなりません。然らば気合とは何か、即ち気合とはある特定のコンディションから生れる所の「ハズミ」であります。即ち気組といふものは発動機のやうなもので、これには油がなければならず、又これを動かす人の手が加はらなければ動かない、それがつまり「ハズミ」であります。では特定のコンディションとはどのやうなものかと言へば、これは気組の質によつて各相違のあることで一概には言へませんが、平たく言へば、気組といふ発動機にハズミをつけ、霊感を呼びだすに最も都合の良い環境、条件といふことであります」
「なるほど」
「このたびあなたの鴻大無辺な善意によつて御援助を得ることとなり、いはば廃人と申すべき身でありながら万億の富を睨んで一代の興敗を一気に決することができるといふ、下郎変じて一躍大将となりかねない稀有の機会を与へていただくことが出来まして、さて僕のひたすら祈り希ふところは、この感動と気組に最上の気合を与へ、最善の結果を得て鴻恩に報ひたいといふこと、唯これのみであります。もとより先程から幾たびとなく申すやうではありますが、単に一応の霊感を呼びだすだけのことでしたなら、この場所で今すぐにでも結構できることですが、僕の立場と致しましては、このやうな大事の際にそれでは甚しく不本意なことでありますし、また、あなたの立場と致しましても、決して御満足ではなからうと思ふのであります」
「いかさま。これは色々と御高配をいただきまして、わたくし、ただもう感激致してをりますが、御言葉の通り、霊感にも様々と深浅上下の品々がありまするものでしたならば、一世一代の大事の際でもありまするし、深い品、上の位をいただきたいと云ふことが、これはもう掛値なしの人情と申しませう。そこで、霊感を呼びだすに都合の良い気合のかかつた環境、たしかそのやうなお言葉でしたな。わたくし、この哲学といふものに不案内でとんと物分りの悪い方でありまするが、気合のかかつた環境と申しますると、つまりこの下世話におみきあがらぬ神はないなど申しましてな。待てしばし天下とるまで膝枕チョイ/\などと、これは官員さんが羽振をきかせた頃の唄で、天下の政治は待合の四畳半できまるものだなどと申してをりますが、これが即ち政治の気合といふもの。霊感の気合の方は下世話の噂にないことで、わたくし共俗人とんと推量致しかねますが、やつぱりこの天下の政治と同じやうな筋でせうかな」
「さて、それが問題なのです。つまりですね。詩人は如何なる時又如何なる環境に於ても詩をつくることが出来るでせう。これは分りきつたことですね。けれども至高のインスピレーションによつて傑作を創りうる時は一生のうちにも数へるほどしかありません。霊感の場合が又これと略ほぼ同様なものです。即ち、如何なる時又如何なる場合に於ても一応の霊感を呼びだすことは出来ますが、至高の気合によつて高度の霊感を呼びだすことが出来るのは一生のうちにも数へるほどしかありません。且又、詩人のインスピレーションと同じことで、至高の気合がどこに在るかといふことは分る筈がないのです。どこぞこの街角の喫茶店に詩人のインスピレーションが転つてゐるなど言へば、これはをかしな話ではありませんか」
「いかにも」
「然しですね。今度の場合に限つて、このをかしな予想が案外不可能ではないのです。といふのは、予言の対象が明確なうへ、予言の結果が一生の浮沈に関する重大な意味を持ち、従而、僕の気組が異常に高く、触るゝもの全てを切る妖刀の如く冴えてゐて、多くのハズミを要せずに動きだすことが分るからです」
「成程々々」
「然らばその環境条件とは何かと言へば、即ち僕が直接株式市場へ出掛けることに外なりません。触るゝもの全てを切るが如くに冴えてゐるこの高い気組のことですから、直接株式市場の熱気奔騰する雰囲気中に身を置くや否や、全身全霊あげて忽ち火閃となり、霊感の奔流と化して走るだらうといふことが最も容易に想像することが出来るのです」
「ウム/\」
「然しながら、生憎ここに重大な障碍に気付かなければならないのですが、既に手紙でくはしくお話致してありますやうに、つとに全快してゐるとは言ひながら表向きは患者として幽閉されてゐる身の上で、僕には白昼公然たる外出の自由がないのです。従而、白昼公然株式市場へ赴くことも出来ません。それゆゑ僕が株式市場へ赴くためには何等かの手段を施さねばならないわけであり、ここに手段といふものが唯二つしかないのです。如何やうに工夫を凝らしてみても、唯二つあるのみであります」
「…………」
「その第一は過激な方法で、即ち直ちにこの場から逃亡して明朝株式市場へ現れるといふ手段なのですが、これはいささか穏当を欠いて種々不都合がともなひ、先づ差当つてなにがし君の首が危いことにもなり、又、僕とても見付かり次第病院へ逆戻りといふわけですし、事の成就を見ないうちに見付かるやうなことがあれば、元の木阿弥といふことになります」
「成程々々」
「そこで第二の方法ですが、要するに可能な手段はこのひとつで、事の成就をはかるためにはこの方法をとる以外には全く仕方がないのです。それはつまり明朝あなたが先づ病院へ訪ねて来て下さるのです。それから院長にお会ひになつて、あなたの職業身分など披瀝されて、責任をもつて僕の引受人となることを声明していただくのですね。肉親でないから不可だといふ話がでるかも知れませんが、その時はつまり、退院後は店員として監督使用するものであるから父兄同然であつて、保護に万全を期するむね断乎主張していただけば面倒はありません。その日直ちに僕は退院することが出来ます。さうして何ひとつ憂なく全霊をあげて予言に集中することが出来るわけです」
七
なんとまあ話の運びの巧い奴だと、深川オペラ劇場主人はたまりかねて、つい泡盛を一杯ぐいと飲みほした。
気違などといふものは案外みんなお喋りが達者なのかも知れないが、日本の外交がから下手だなど噂になるのは、これはもう外交官がみんな正気のためである。
だが気違のお談議に感心してはゐられない。どこの間抜を探したつて、わざ/\気違の引受人となり、月給払つて、断乎保護に当る馬鹿者がゐる筈がないではないか。
要するに問題といふのはここの所で、気違に言ひくるめられて、ぼんやり帰る奴はない。
愈これは——と、そこで彼は考へた。だうやら愈ポカリとやられる段取へ段々近づいて来たやうだが、ここまでくれば、もはやだうにも仕方がない。一か八か当つて砕けるまでである。
ポカリと来たら跣足になつてうしろも見ずにサッサと逃げだすことであるが、かうと知つたら——だから人は見栄外聞をはるものではないのである。気違に会ふのだから浴衣がけで沢山だのに、セコハンながらパナマ帽やら絽ろの夏羽織はまだいいとして、買ひたての桐の下駄など何の因果ではいてきたのか分らない。
それにつけても、ここに薄気味悪いのが看護人なにがしであつた。
成程手紙にある通り、身の丈は五尺二寸ぐらゐ、色浅黒く、ずんぐり太つてゐるのであるが、この御人唖や聾ではない筈だが、さつきから唯の一言も喋らない。尤も樫の葉の御人がのべつ幕なしに喋り通してゐるから、これまた仕方がないかも知れんが、さて然らば、ここにこの御人の十七吋インチもあるやうな大きな頸は曲げることが出来ないのかといふ心配が起つてくる。
といふのは、深川オペラ劇場主人がこのおでん屋へ罷り出てから相当時間もたつてゐるのに、この御人の十七吋もある頸は唯の一度も曲つたためしがないのである。従而、顔の位置が一度も動いたためしがないし、扨さて又顔の表情がビクリと動いた気配もない。
で、この御人の視線がまつすぐ向いてる先の方へ辿つて行くと、深川オペラ劇場主人の肩の上を素通りして璧に突当る筈であつたが、そこに裸体画でもかゝつてゐてそれを睨んでゐるといふなら、もうすこし色つやの良い目の色をしてもらひたい。この御人の目の玉ときては、大きくまる/\とむかれてゐるのに、どろんと濁つて、第一ちつとも動かない。
動物園へ遊びに行くと、昼間の梟と木菟みみずくがかういふ具合にヂッと止つてゐるものだが、あれだつて見た恰好は決して気持のいいものでないが、昼間は物が見えないのだと分つてゐるし、金網の中にゐるものだから、オヤ愛嬌のある先生だなどと大きなことを言ひながら眺めてゐる。この御人ときては、さうはいかない。
こんなにヂッと動かないのに、キリスト教の犠牲精神といふもので便所の掃除もするといふし浴衣の洗濯もしたといふから、魔法使のやうなものだ。
樫の葉の御人は痩せ衰へて吹けば飛びさうに見えるからポカリときても大して痛くはなさゝうだし、第一物腰が貴族的で応待なども人並以上にやはらかだから、ポカリとくる時ヒラリと体もかはせさうだが、木菟の先生の一撃ときてはノックバットで張り飛ばされるやうであらう。第一如何なる瞬間に如何なる角度から、ポカリとくるのか到底見当つかないのである。
木菟の先生は看護人だといふのであるが、素人の見たところでは樫の葉の御人の方がだう睨んでも真人間に近い様子に見えるから、精神病院などいふ所は何が何やら分らない。この調子では、お医者さんだの院長先生といふ人はどんな顔してゐるだらう。大きな椅子にドッカリと河馬かばのやうにふんぞり返つて、黙つて坐つてゐるかも知れん。
樫の葉の御人だけでも重荷のところへ木菟の先生が控へてゐるから、だう考へても一つ二つはやられることに極つたが、手ぶらで帰る馬鹿はないから、深川オペラ劇場主人はここで又につこり笑つて、さて、一膝のりだした。
八
「いや、お話はよく相分りました。実はわたくし、昨夜大きな金の茶釜を丸呑みにした夢を見ましてな。なに、なんのたあいもなく呑みこんでしまつたのですな。これは夢見が良いなどと今朝から喜んでをりましたところで。だん/\お話を伺ひますると、わたくしには何から何まで夢のやうな有難いことばかりで、やつぱりこれは正夢であつたなどと、実は先程からこのやうに考へながらお話を伺つてをりました。只今わたくしの店に、左様、丁度何人になりまするかな。いやもう働きのないのがウヂャ/\とをりましてな。生憎店をまかせても宜しいやうな、心棒になつてくれる腕達者が一人として見当りません。最近はお蔭様で店の信用が一段とつきまして、でまアここが発展の機会だなどと考へてをりました折柄で、なんとかして眼識もあり修養も積んだ人物を支配人格に迎へたいものだなどと日夜このことばかり悩みぬいてをりました。あなたのやうな霊力もあり修養も積まれた御方に来て働いていただくことが出来るなどとは、まさしく日頃信仰いたしまする棘ぬき地蔵の御利益で、願つてもないことであります。月給なども出来るだけは致しまするが、然しこの月給などといふものはどのみちほんの些細なもので、これは霊感の大小によりまして、その都度配当を差上ることに致さうと斯様考へてをります。で、店へ来て働いていただくに当りまして、この、霊力ある御方を俗人の分際で試験致すなど申上げては、こやつ陽気の加減で少々のぼせが来てゐるやうだなと定めし御心外のことかと存じまするが、なんと申しましてもわたくし共俗人眼識がありませんので、一応試験のやうなことを致さなくては人の値打が分りません。いやはや、思ふだに笑止の次第で、話が逆でありまするが、なんに致せこれが俗人社会の慣例で、かう致さなくては我々人が使へぬといふ生れつき無力無能に出来てをります」
「御尤ごもっとものことです。就職試験といふわけですね。然し、手紙にも申上げてある筈ですが、僕は学校で経済を学んだこともなく、特に株に就いでは全くの門外漢で、ただ霊感の能力をお貸してこれを活用していただく以外には手腕もなく才能もない男なのです」
「いえ、もとよりそれだけで結構で。経済やら株のことやら齧つてみてもおいそれとお金の儲かるものではありません。この節株や経済に明るい人間など掃溜へ入れてお釣のくるほどありますが、かういふてあひはわたくし共の商売にはカラ役に立たないといふ先生達で。もう私共に多少なりとも霊感の能力がありましたなら、日本中の金気をみんな吸ひとることも易々たるもので、まして六年間御修錬の霊感ときては、アメリカの金気も物の数ではありません。で、この霊感の威力を試験するなど申上げては愈奇怪で、霊の尊厳をわきまへぬ不埒な奴とお腹立でもありませうが、わたくし共俗人かう致さねば宝石も砂利も見分けがつかないといふ愚かな生れで、ただもう面目次第もないことであります。で、甚だ申しかねるところではありまするが、ひとつ、かういふことに致させていただきたいと存じます。つまり、この、先程のお話に一応の霊感といふのがありましたな。あれでもつて、何か二三日先のことを極く大ざつぱに予言していただく。わたくし、その結果を見まして——いや、もう、外れる筈のものではありませんが、ここが俗人の浅間敷いところで、かうして充分納得させていただきましたうへで、早速とる物もとりあへず病院へ駈けつけまして、河馬の先生、イヤ、院長の先生にお目にかかり、直ちに退院していただくことに致しませう。その節は病院の支払など何万円でも充分に用意して参ることに致します」
「お話は良く分りました。勿論、あなたは僕の霊力を御存じないのですから極めて至当な話で、気を悪くする筈はないのです。却つて霊力を納得していただく好機会を得たわけで、喜んでゐる次第ですが、では、何か、明日の天候でも予言しませう」
「さ、それが——」
と、深川オペラ劇場主人は、ここで又、一膝ぐいと乗りだした。
案じるよりは生むが易いとはこのことである。然しここで余りにや/\したりすると、ポカリとやられることになる。
深川オペラ劇場主人はふところから何やら紙をとりだした。
「実はわたくし、先日お手紙をいただきました折に、いやもう、これが俗人のなさけないところで、とにかく一応試験といふものをさせていただき、霊力を納得させていただいたうへ、御共力願ふことに致さうと斯様に考へましてな。今宵こちらへ参上致すにも、実はかうして用意して参つたやうなわけであります。これは丁度明日から行はれまするなにがし競馬の登録馬の出馬表で、ここにかう馬の名前が幾つも書いてありますが、この勝馬をひとつづつ予言していただきたいと存じましてな。大変御手数で恐入りますが、この一応の霊感で極く大ざつぱなところを予言していただくにはこれが丁度手頃かと考へましたわけで、そこでかうして用意して参つたやうな次第であります」
「それは好都合でした。二つの一つを予言するのも百の一つを予言するのも、霊感の場合は結局同じ労力です。では、その勝馬をちよつと予言しませう」
と、樫の葉の御人は極めて気軽に出馬表をとりあげた。
九
気違の予言などといふものは、色々と奇怪な作法を伴ふものかと思つたのに、これは又、至極あつさりしたものであつた。
樫の葉の御人は出馬表を前へひろげて、さて鉛筆の芯が気になるといふ風に、鼻先へかざして眺めたり、五六字書いたり消したりしてゐたが、突然いとも無造作に第一競馬第二競馬とヒョイ/\点を打ちながら勝馬の印をつけはじめた。予想屋と同じぐらゐ無造作である。
却つて予想を終つた後に膝の上へ掌を組んで一分間ほどしんみりと目を閉ぢてゐる。霊感を頭の抽斗ひきだしといふやうな所へしまつてゐるのに相違ない。目を開けて、出馬表を深川オペラ劇場主人に手渡した。
あんまりアッサリしてゐるので、深川オペラ劇場主人は拍子が抜けて言葉がでない。鮒のやうな目付をして、出馬表を敬々うやうやしく押しいただいてゐる。
「では後日迎へに来ていただく時をお待ち致してをります。いつでも退院できるやうに荷物をまとめておきますが、四五枚の着換と二十冊の書籍だけで行李ひとつに足りないほどの荷物ですけど、ぶらさげて歩くわけにはいきませんので、円タクを用意して来て下さるやうにお願ひします」
と、樫の葉の御人は立上つた。すでに綿密な引越の計画も立ててゐる。さてそこで、一段と声を落して、かう言つた。
「就きましては、退院の支度があるものですから、二十円拝借させていただきたく存じます。厚かましいお願ひですが、いはば只今の予言代といふことにして——何十倍も儲かりますよ。フッフッフッフ」
いや、どうも、深川オペラ劇場主人は冷水を浴びたやうにぞッとした。樫の葉の御人の眼が薄気味悪い笑ひと共にギラリと光つたからである。
これが気違の目といふものであらう。それでなければ殺人鬼の目の光である。あまつさへ、こつちの心の裏側をみんな見抜いてゐるやうな気持の悪い笑ひ方をする。
だうにもこれは仕方がない。で、深川オペラ劇場主人は十円札を二枚とりだした。
「あなたの二十円はわづか一日の小遣にも当らないことでせう。ところが僕の二十円は丁度半年の食費に当つてゐるのです。公費患者に給与する食事は一貫目いくらの残飯ですからね。ところが僕達はこの残飯の又残飯を一銭一銭と買つて腹の足しにすることがあるのです。犬や豚の食物を僕等は金で買つて食べなければならないのですよ」
などと言ひながら、然し、樫の葉の御人は十円札を大切にするといふ風が一向にないのである。蟇口へも入れなければ、袂の中へをさめようともしない。手にぶらさげて、さつきまで撮つまんでゐた樫の葉と同じやうヒラ/\させてゐる。
「豚や犬にも劣つた廃人の願ひをききとどけて、このやうな遠方までわざ/\御足労下さいました温いお心は、棺に這入つてのちも忘れるものではありません。厚く御礼申上げます」
と、樫の葉の御人は丁重なる挨拶を残し、いまだに十円札を手にヒラ/\とさせながら、裏口から畑の中へ消えこんだ。
すると木菟の先生もこれにつゞいて、これはたうとう最後まで一言も喋らなければお辞儀も致さず、十七吋もある頸を黙々と振り向けて、これもまつくらな畑の中へガサ/\と消えこんでしまつたのである。
十
なにがし競馬で深川オペラ劇場主人が大儲でもしてくれゝば、芽出度し/\といふことになり、尚その上に、兜町には二人づれの不思議な旦那が現れて、日本国中の金といふ金をみんな二人のふところへ収めることになつたかも知れなかつた。
生憎さうはいかなかつた。
僕は悲劇が嫌ひのたちだが、だうも事実といふものは枉まげることが出来ないのである。
なにがし競馬で深川オペラ劇場主人は一日地団太踏んでゐた。流れる汗を拭くのも忘れて埃をかぶつてゐるものだから、汚い顔をして、人波をわけて走つてみたり、立止つて唸つてみたりしてゐる。
東京帰りの汽車に乗つても正宗の壜を鷲掴みにして地団太踏んでゐるのである。近所の人々は気が気ぢやない。これはだうもとんだ悪相の気違と乗合して困つてしまつたなどとぼやいてゐる。
まつたくもつて、巧々うまうまペテンにかかつたのである。とはいふものの、さて熟々つらつらふりかへつてみるに、はなから臭いと思はないのが不思議であつた。
抑々気違の弁説があんなに爽やかな筈がない。なんとかかんとか奇天烈な風に持廻りながら思ふつぼへ話を運んで行くのであるが、あのへんの条理整然として、気違の業ではないのである。
顔付だつて利巧さうで、知らずに会へば、気違どころか文士の先生ぐらゐには踏んでしまふところである。
そこは連中心得たもので、さてこそここに木菟の先生といふ妙ちきりんな相棒を並べておく。先生が目の玉むいて黙然とをさまりこんでゐるものだから、樫の葉の御人の弁説も正気のものとは聞けなくなつてしまふのである。
第一考へてみるまでもない。気違が深夜病院を脱けだして、泡盛を飲んでゐるなんて、こんな奇怪な出来事が文明国の首都に於て行はれる筈がないのである。
それにしても手数のかかつた方法で騙かたりを働く悪人共があつたものだ。探偵小説によると、前もつて犯行の期日を予告して仕事にかかり危険を冒すことを無上の趣味とする泥棒氏などがあるさうだが、樫の葉の御人・木菟の先生もこのでんで、先づ何十枚の手紙から始まつておでん屋に於ける会見となり手間をかけて散々人を嘲弄したうへ騙るのが趣味であるとしてみると、なんとも始末に終へないほど後味の悪い話である。
ポカリと来ては大変だと野だいこも及ばないほどへいつくばつて、せつせと御機嫌とつた様子を思ひだし、それが奴等の笑ひの種になつてゐるのを考へると、わッといふ唯一声の悲鳴と共に風となつて消え失せる嘆きを感じてしまふのである。
あの界隈の与太者共に相違ないが、被害はたつた二十両でも、やられ方があくどくて、うつたうしくて我慢がならない。
深川の顔役ともあらう者が——それほどでもないが、深川の旦那ともあらう者が——これもだうも、それほどでもない。とにかく顔にかかはるではないか。
そこで翌日、深川オペラ劇場主人は日当一日五円づつ仕事のあとでは充分に振舞ひ酒といふ約束で二人の暴力団を雇ひ入れ、先づ精神病院へやつてきた。
「旦那」
暴力団の一人が精神病院の受付から浮かぬ顔付で戻つて来て、自動車の中の深川オペラ劇場主人に報告した。
「だうも与太者ぢやアなさゝうなんで。さういふ名前の気違がほんたうに入院してゐますとよ」
「そんな話があるものか」
「然しねエ。ちやんと名簿にさういふ名前があるんでさア。相当古株の気違だつて言つてましたぜ」
「それぢやア、なんだ。与太者が名前をかたつてるんだ。してみるてえと、これはなんだな。与太者といふのは此処の小使か看護人か看護婦の兄とか弟といふ奴に違ひねえ。とにかく真物ほんもののキ的にいつぺん会つてみようぢやないか」
「ようがせう。然しねエ、旦那。間違つて入院させられねえやうに気をつけておくんなさいよ」
と、三人は精神病院へ上りこんだ。
待つほどに、ガチャン/\と奥の方からいくつも錠をあけたてする音が近づいてきて、やがて、和服の上に割烹着のやうな白いものをつけ、左の手にバイブルをぶらさげた看護人を先登せんとうにして疑惑の中の怪人物が現れてきた。
これを見ると深川オペラ劇場主人は胆をつぶして、突然うろ/\と鉄格子のはまつた窓を見廻したりしたのは、ならうことならそこを破つて逃げたい気持であつたのである。
和服の上に割烹着のやうな白いものをつけ左の手にバイブルをぶらさげた御人はまさしく木菟の先生であつた。
木菟の先生のうしろから静々と現れたのは、まぎれもなく樫の葉の御人なのである。
樫の葉の御人は感極つた面持であつた。六年前から涙がでないさうであるから、成程泣いてはゐないけれども、悄然としてむしろ甚だ悲しげである。例の如く若干首を傾けて貴族の如く一礼をなし、さて、顫ふるへを帯びた細い声で感動のために澱みながら、泌々しみじみと挨拶の言葉をのべた。
「先夜は大変失礼を致しました。悪印象をお与へしたのではないかと毎日心配してゐたのです。お待ちかねはしてゐましたが、ほんとに来て下さるかだうかと、それのみ案じつづけてゐたのでした。それゆゑ、荷物もつくつてゐない始末なのです。余りの感動のために感想すら浮かばない有様ですが、愈裟婆へ出ることが出来るのですね。それにしても、運送屋さんを二人まで連れて来ていただくほどの荷物がある筈はありませんのに」
と、樫の葉の御人は腹掛に印半纏しるしばんてんの暴力団を眺め、蒼ざめた顔に侘びしげな、けれどもまぶしげな笑ひを浮かべた。
十一
「虎八に鮫六」
「ヘエ」
まだ太陽がやうやく地平線の森の頭にかかつてゐる頃であつたが、深川オペラ劇場主人は、なにがし区なにがし町、つまり例の病院からひろびろと畑つづきのおでん屋で、もはやしたたか泡盛に酩酊に及んでゐるのである。
「なア。虎八に鮫六」
「ヘエ」
「キ的と正気の区別といふものがお前達に分るかな」
「はアてね」
「気違てえものは、泌々修養をつんだものだなア」
「さうかも知れないねエ」
「第一礼儀正しいやな。挨拶の口上なんてえものも、水際立つたものだな」
「全く驚いたものですねエ。だから見ねえ。看護人が挨拶しないのは、あれは気違と区別をつける為ですぜ」
「俺が十六の年だつたな。高等小学校を卒業して、日本橋のいわしやの小僧になつて始めて上京する時のことだ。俺の生れたのは東北の田舎で、うちは水呑百姓だつたな。おふくろが信玄袋を担いで停車場まで送つてくれて、三里もある畑の道をおふくろと二人で歩いたものだ。そのとき、おふくろがかう言つたぜ」
「オヤ。なるほどねエ」
「東京てえところは世智辛いところで、生馬の目を抜くてえところだから、人を見たら泥棒と思へと言ふのだな。泥棒てえものは見たところ愛嬌があつて、目から鼻へ抜けるやうに利巧で、弁説が巧みで、お世辞のいいものだと言つたな」
「田舎の人は律儀で口不調法だといふから、色々と東京を心配しますねエ」
「おふくろてえものはいゝものだなア。なア、運送屋の先生。然し、なんだぜ。流石におふくろほどの人でも、気違てえものが目から鼻へ抜けるほど利巧で、弁説が爽やかで、礼儀正しくて、修養をつんだものだとは知らなかつたんだな。こいつばかりはお釈迦様でも御存知ないや」
「まつたく世の中は宏大でがすねエ」
「虎八に鮫六」
「ヘエ」
「お前達おふくろが有るだらうな」
「ヘエ。たしかひとり、さういふものが有つたやうでしたねエ」
犬小屋のやうなおでん屋は、蒸気の釜のやうに暑い。けれども、裏戸と表戸を開け放しておくと、畑の風がまつすぐおでん屋を吹きぬけて、そのときは涼しいのである。
太陽が赤々と地平線へ落ちようとしてゐる。風の中の熱気がいくらか衰へて、畑の匂ひがだん/\激しくこもつてきた。
「一昔前のことだつたな。俺が三十五の年だ。東京で一人前に身を立てゝ、錦を飾るとまではいかねえが、くにへ帰つたと思ひねエ。そのときは何だぜ。東京中の名物といふ名物はみんなトランクへつめたものだつたな。お盆の頃だから、丁度夏の盛りだ。うちへつく。田舎はいつも変つてゐねえな。露天風呂でひと風呂あびる。夕めしだ。するてえと、おふくろが、うまい物は東京で食ひ飽いてることだらうからと言つて、小供の頃俺が大好物だつた雑炊をな、茄子、かぼちや、キャベツ、季節の野菜をごちや煮にしたものだ。これを拵へて祝つてくれたぜ。おふくろは有難いものだなア。大きな茶碗をとりあげて、さて一箸つけようとするてえと、思はず胸がつまつてきてポロリと涙が雑炊の上へこぼれてしまつたものだつたな」
「オヤ。しんみりとしたいい話ですねエ」
深川オペラ劇場主人は追憶のために胸がつまつてきたやうである。彼はフラ/\と立上つて裏戸をくぐつて、先づ玉蜀黍に小便をかけ、それからガサ/\と畑の中へ消えこんだ。
「モシ/\。旦那」
虎八と鮫六は慌ててあとを追ひかけたが、深川オペラ劇場主人は振向きもしない。畑の遥かまんなかへフラ/\と泳いで行つて、突然ばつたりひつくりかへつてポロ/\と涙を流した。
「虎八に鮫六」
「いけないねエ。旦那。百姓に見つかるてえと、鍬でもつて脳天どやされますがねエ」
「俺もくにへ帰つて百姓がしたくなつたぜ。東京は泌々世智辛くて厭だねえ、運送屋の先生。ポロリと涙が雑炊の上へこぼれたものだと思ひねえ。そこで俺は雑炊と一緒に泌々涙を食つたものだ。するてえと、だうだ。不思議にポロリと又ひとしづくこぼれたな」
「いけないねエ、旦那。センチになつちやア」
深川オペラ劇場主人は畑の枝豆の中へ顔を突つこんで泣いてゐたが、やがてそのままぐつすりと睡つてしまつた。
「こんなところで睡つてしまつちやいけないよ。ねエ、旦那」
虎八と鮫六は深川オペラ劇場主人の手を引つぱつたが、もはやグニャ/\と手応へもない。正体もなく熟睡に及んでゐるのである。
そこで虎八と鮫六はあきらめて、おでん屋へ戻つてきた。
旦那が熟睡したものだから、虎八と鮫六は泡盛をやめて、上酒の燗をつけさせた。特別大きな皿にしこたま冷やつこをつくらせ、一貫目もある氷を一本ドッカと入れて、こう、深川のおにいさんといふ者はかうして豆腐を食ふものだなどと威張りながら、上々の御機嫌で飲み直しはじめた。
とつぷり夜が落ちてゐた。
すでに武蔵野の田園は暗闇のはるか底へ沈み落ち、深川オペラ劇場主人の熟睡も暗闇のはるか底へ沈み落ちたが、虎八と鮫六は枝豆畑の旦那のことなどとつくの昔に忘れてゐる。黒髪のむすぼゝれたる思ひをばとけて寝た夜のなどと柄にない声で唄つて、おい、運送屋の先生、一献いきませうなどと差しつ差されつしてゐるのである。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
初出:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年9月9日作成
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「盗まれた手紙の話
坂口安吾
+目次
あの人間は気違だから精神病院へぶちこめなんて、とんでもない。神様は人間をお裁きになるけれども、神様が神様をお裁きになつたり、あの神様は気違だから精神病院へぶちこめなどと仰有おっしゃることはなかつたのである。
一
ある朝、兜町のさる仲買店の店先へドサリと投げこまれた郵便物の山の中で、ひときは毛色の変つた一通があつた。たいへん分厚だ。けれども証券類や印刷物とは関係のない様子に見える。
ペン字のくせに一字一画ゆるがせにしない筆法極めて正確な楷書で、なにがし商店御中とある。で裏を返してみると、これまた奇妙である。
なにがし区なにがし町——といつても、つい先年まではさしづめ武蔵野などと言つてゐたあたりの、なにがし精神病院内、なんのなにがしと書いてある。
はて面妖なところから便りがとどいたものである。精神病院のお医者さんやら小使でも株をやらない筈はないが、爆撃機のお腹の中の爆弾ほどまる/\ふとつて重たいのが気にかかる。そこで勇士がひらいてみると、ザッと次のやうな大意のことが書いてあつた。
二
自分は精神病院の入院患者ではあるけれども、必ずしも精神病者ではない。もとよりいつたん精神病院の患者として入院したからには、曾かつて精神病者であつたことは明白であるが、現在は既に全治してゐる。
それにも拘らず、なにゆゑ今もなほ入院してゐるかと言へば、自分は公費患者であつて、たとへ医師が自分の全快を認めても、引受人が現れない限りは、医師並びに自分の意志によつては法規により退院することが不可能なのである。
自分には母があつたが入院中に死亡し、兄と姉があるけれども、この二人は自分の引受人となることを好まない立場にある。従而したがって、自分は既に全快しながら、しかもなほ精神病者として永遠に入院生活を続ける境遇に置かれてゐるわけである。
然し、自分は既に精神病者ではないから、病院内に於ては、三分ぐらゐは患者として、残りの七分はほぼ同室の患者達を看護する者の立場として、生活してゐるものである。又、患者達の懇話会の幹事をやり、その会報の編輯などもやつてゐる。
一般に全快した公費患者は看護人に採用されるのが普通であるが、病院には予算があり、定員以上の看護人には給料を支払ふ能力がないから、自分などほぼ看護人と同じ仕事をしてゐながら、正式に看護人では有り得ないのである。それゆゑ看護人ほどの自由はないが、医師や事務員の引上げた後なら、同僚即ち看護人の理解によつて、非公式ではあるけれども外出できるし、縁日をぶらついてきたこともあつた。
尚、前記のやうに、既に全快しながらしかも入院生活を続けなければならないのは、ひとり自分だけの不運ではなく、公費患者の大多数が概ねこの宿命を負ふてゐるものなのである。
然らば精神病院に於て、つとに全快した患者達がどのような生活をしてゐるかと言へば、こればつかりは貴殿いかほど聡明多才であらうとも、御想像もつかないであらう。
元来が公費患者といふものは支給される食事だけでは栄養が充分でないから、栄養補給のために小遣を稼ぐ必要があるのである。そのために自分等は修養に費さねばならぬ貴重なる時間をさいて、封筒貼をやらなければならない。
とはいへ、そのやうな労務のかたはら、凡そ精神病院の入院患者ほど、自家の職業を病院内へ持越して、常に不断の修養につとめてゐる者はないのである。
或る者はすでに一万二千枚の長篇小説を書きなほ執筆をつづけてゐるが、一万二千枚ともなれば机上に積まれた分量自体がすでに充分瞠目に価するもので、作者はことさら分量の大に恬然たる風を装つてゐるが、過度に恬然としたがる風があるものだから、却つて分量の大のみ専一に狙つてゐるのではないかと疑ふ気持になる程だ。とはいへ、分量の大のみ専一に狙ふにしても一万二千枚ともなれば、充分敬服に価するものである。
一般に精神病院の入院患者は自発的に宗教に親しみ、仏教たるとキリスト教たるとを問はず、各なにがしの意見を所有してゐるのが普通であるが、彼等が教理に就いて所信を吐露し論じ合ふ時ほど彼等の姿に品格と光輝を与へるものは先づすくない。仏教に声聞しょうもん、縁覚えんがくといふ悟入の段階があるやうだが、一般に精神病院の人々は、自分の観察によれば、各自縁覚的な境地を所有するところの熱心なる求道者のやうである。
けれども中には特に非凡な宗教的境界に到入した人物もあり、彼は幾多思索の後、宗教の鍵はマホメットにありと信じるやうになつた。この男はすでに数年不便と不自由を忍んで独修書によつてトルコ語とアラビヤ語の勉強に没入してゐる。さうして昨今はトルコ語とアラビヤ語以外の言葉を用ひなくなつてゐるが、時々同室の人々に向つてコーランの教義を説き明すことがある。トルコ語やアラビヤ語のことであるから自分に内容は分らないが、宗教の本義は言葉の中には無いから、何物かが分るやうな気がするし、自分は彼が純粋な信仰から必然的にトルコ語やアラビヤ語に走らずにはゐられなかつた内部の熾烈深遠なものを疑つてはゐない。
又或る男は——これは入院前園芸を業とし、特に温室栽培に専心従事してゐた男であるが、火力を用ひず専ら太陽熱を利用して温室栽培をなす研究をすゝめ、最近に至り、昼間太陽熱によつて温めた水を管に通して夜間の暖房に利用することを略ほぼ完成した。この施設によれば全く燃料が不要であるから、農家の利益は甚大である。
又或る男は釣針の研究に没頭してゐる。彼はあらゆる魚の習性に就いて該博なる智識を有してゐるが、目下彼の研究題目となつてゐるのは、あらゆる魚釣に可能な唯一本の針の発明といふことである。勿論鯨と目高を同一の針で釣ることができるかと皮肉な問ひをなす者は言を弄ぶこと容易にして事を為すこと至難なる所以を知らざる愚者にすぎない。彼はこの発明のために、釣針よりも、先づ多くの魚の習性に就いて更に研究をすすめる必要があり、多くの魚を飼育する必要にせまられてゐるが、それが全く不可能であるため、自暴自棄におちいり、「魚よ、なぜ水中に棲むか」といふ叫びをあげて泣き叫ぶ発作に襲はれることがある。
ところで、然らば自分はだうかと言ふと、自分は専門学校で国文学を学んだが、当時就職難であつたため、ある私設鉄道の従業員となり、零細な日給で働いてゐるうちに、やがて患者としてこの病院へ送られてきたもので、当年三十三才、すでに病院生活は足掛六年である。
自分がなぜこの病院へ送られて来たかといふと、当時自分は東京近郊の小さい駅の改札をやつてゐたが、改札掛といふものは専ら客の手と切符のみ見てゐる職業のやうではあるが、案外乗客の顔も一々見てゐるものなのである。
然るに自分はある時自分の特異な能力を発見した。といふのは、自分は乗客の手と切符のみ注目してパンチを入れながら、未だ一瞥も与へぬうちに乗客の顔がちやんと分つてゐることに気付いたからである。で、自分はこれを確めるために自分の顔をあげてみる。と、まさしくふッと自分の前を掠めて行く乗客の顔が果して想像の通りなのである。しかも乗客は自分にそんな能力があることを知りもしないし、現にその能力の実験に供されてゐることなども気付かないから、自分の関心にも拘らず全然無関心な顔付であることが大変気の毒でもあるし、哀れなものにも見えるのである。
然し、これだけのことで済めば話は至極簡単で、自分はこの病院へ送られずに済んだ筈であつた。
ところが、やがて、自分の能力は次第に分裂し、分裂が同時に生殖であるといふアミーバ的発展過程をとりはじめた。
即ち、ある日、自分は一乗客の手によつて、その日の天候の急変を予断した。といふのは、ある乗客の手が自分に向つてそれを語つてゐたからで、数ある乗客の手のうちには、そのやうな予言を帯びた手のあることに気付いたのである。
又、或る乗客の手には火災や地震を予言してゐるものもあり、政治や相場の変動を物語つてゐるものもあつた。又、或る時自分は、或る乗客の手が自分に向つて、直ちに池袋まで駈けつけ、豊島師範学校の前まで行き、そこで踵をめぐらして戻つて来なければならないといふ自分に課せられた宿命を暗示してゐるのを読んだ。やむを得ないことであるから、自分は駅長のところへ行き、二時間の外出を許してもらつて、命じられた運命を果さなければならなかつた。
自分はこのやうにして乗客の手から次第に多くの予言を読むようになり、時には殺到する雑多な予言の応接に疲れて、視覚を厭ふことがあつた。
そのうち最後の時が来た。
第一の予言を読んだのはその日の朝で、この時乗客はランドセルを背負つた小学校の女生徒であつた。婦女子の生長は草花の如くすみやかで又妖艶なものであるから、もう年頃のことと思ふが、自分の脳裡にとどまる幼顔の記憶によれば、近頃あまたの青年がその面影に胸を焼きとかく業務を怠りがちのことであらうと愚考してゐる。自分はその可憐な手に株式市場の一混乱期を読んだのである。貴殿もとより六年前の大変動をお忘れの筈はないと思ふが、それが歴然物語られてゐたのであつた。
然るにその日の午後に至つて、ここに卒然天地の処を変へるが底ていの第二暗示を読まなければならなかつた。
この時の乗客は四十がらみの極めて貧相な洋服男で、恐らく銀座の雑踏で再会しても一目で見分けがつくと思ふが、南洋系の縮毛にユダヤ系の鷲鼻をもち眼付は狡猾で手足の相は猿猴えんこうめき好色無恥であつた。
自分はこの男の爬虫類の頭部めいた指頭から甚だ好ましからぬ思ひと共に切符を受取るに際して、ここに図らざる宿命の指令を読んだ。即ちそれはお前の一生を決する時が近づいたと予告してをり、朝の予告とつながる関係が物語られてゐるうへに、自分の浮沈がそこに賭けられてゐることを明確に示したものであつたのである。
宿昔青雲の志、蹉※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)さだたり白髪の年といふが、自分の如き凡人は半生に至らずして既に見すぼらしく貧苦にやつれ日夕諦らめに馴れた心を無二の友としてゐる。三円の昇給にすら不馴れな心であるから、このやうな予告によつて心に受けた震駭しんがいが異常なものであることは理の当然で、まるで眼を焼かれたやうな気持であつた。
然しながら狐疑すべきところはないから、夕方六時に交替すると、自分は直ちに実行にかかつた。
自分は当時兄の家に泊つてゐたが、兄は小さな盛り場に食料品店を開いてゐる。
自分は兄が銭湯へでかけた隙に、店と奥にあるだけの現金を掻き集めて飛びだした。確信ある投機であるから悔いも怖れもないのであるが、自分の兄は天性吝嗇である上に苦労性で、或る時兄の蟇口から三十円抜取つた曲者があるといふので、当時自分の通学中の学校へ現れて自分の動勢を偵察し、自分は危く停学処分を食ふところであつた。おまけに三十円は一文も使はぬうちに取返されてしまつたのである。
現金はザッと百七十円なにがしあつた。自分は株といふものに全然経験がないのであるが、裸一貫とか七転び八起きといふことが投機社会には特に言はれることださうで、裸一貫の自分には心強いことであつたが、それにしても億万の結果を望む心にとつて唯の百七十といふ数は決してゆとりを与へてくれるものではない。
更に資本が得たいと思つて、まだ八時といふ宵のうちであつたを幸ひ、十二時頃まで八方自動車を走らせて多くの知人を廻つて歩いた。自動車代が二十何円かかつたのに、自分の得た金は三円なにがしであつた。
ここに自分は一生一代の失敗をした。といふのは自分の修養の足らないせゐで、思ひだすだに自卑のため消える思ひがするのであるが、自分は自動車をぐる/\走廻したあげく、最後に新宿の酒場の前で車をとめた。これが一代の過失であつた。
この酒場で自分はひとりの美女を見た。さうして一気に恋着した。
とは言ふものの、このとき自分の第一感は言ふまでもなく、今に残る印象によつても、この女はあらゆる点で妖婦と称ぶべき女であつた。しかも一流の妖婦ではない。高邁な心なく、教養の閃くものなく、ただ徒いたずらに虚栄のみ高くて金銭に汚く、本能的に多淫であつて禽獣の快楽を一代の理想としてゐる。世間には青春と美貌を持ちながら好んで金持の老人の相手をしたがる女があるが、この女がそのやうな一人であつた。
試みにこのやうな女が年老いて容色衰へた場合を想像するに、その醜怪に堪へかねて嘔吐を催す思ひとなる。自分は生来の趣味として孤独の中に詩美を感じるものであるが、この種の妖婦が肉体の魅力を失ひ老醜のみの残骸となつて世に捨てられた場合のみは、流石の自分も跣足はだしとなつて逃げだしたい。支那の伝説に鴇ホウといふ妖鳥がある。この妖鳥は雌のみで、雄がないと伝へられてゐる。生来多淫で衆鳥と交ることを求めるので、鴇の栖すむ山には他に鳥影がないといふ。支那では鴇を老妓にたとへ、又、老妓を鴇にたとへるのだが、自分はこの女を一目見て同時に鴇の化身を感じた。
もとより贅言を費すまでのことはなく、この種の女は内面の美に全然生来の色盲であるから、自分を一目見ただけで軽蔑した。自分のテーブルへ寄付かうともしなかつた。けれども自分は恋着せずにはゐられなかつた。
底の見え透いた虚栄心も虫酸が走るし、認識不足の糞度胸やら毒だらけの肚の中が無性に不潔で腹が立つたが、横ッ面を殴りつけてやりたいほど、可愛らしさがこみあげるのである。
そこで自分は札びらを切つた。たうとう女は自分のテーブルへやつてきた。さうして益々軽蔑を露骨に見せて、そんなに呉れたいなら貰つてやるといふ手つきで、横の方を向きながら、帯の間へお札を突つこんでゐる。
すでに自分はこの女を征服したも同然で、自分はせせら笑つてゐる女に向つてその悪質な性格や多淫な心を罵倒しながら酒を飲んだ。虚栄の心に満たされることなく、愛する者には愛されず、呪咀に疲れて老人から老人を転々し、末は夜鷹に落ちるまでの女の径路を微細に描破予言しながら、ことごとく溜飲を下げて、札びらを切つたのである。
自分が気付いたのは翌日警察の中であつた。さうして、そこから、直ちに精神病院へ送られてしまつたのである。
今にして当時を想起すれば、心気忽ち痩せ果てて消ゆるが如き羞恥を感ぜずにはゐられない。一代の繁栄を決すべき大事の瀬戸際に正体もなく酔ひ痴れてしまふとはこの上もない修養の不足で、省て慚愧ざんきに堪へざるところであり、精神病院へ送られて然るべきものであつた。
従而自分は入院ののち、一にも二にも修養に心を砕いた。
とはいへ何分不自由な身である。さきにもお話したやうに、与へられる食事では栄養の保持ができないから、毎日封筒を貼つて小遣を稼がねばならない。最近は熟練したので数時間で十銭ぐらゐ稼げるけれども、二銭の餅菓子で栄養を補給したり、稀には一本一銭で売りにくるバットを吸つたり、そんなことをした上で書物を買ふのは容易ならぬことでもあるし、又それを読み修養につとめる時間といふものも決して充分ではないのである。
けれども自分は「奥義書ウパニシャット」を読んだ。読み、且、思索を重ねた。自分は生来の鈍根で見得けんとくするところ甚だ浅薄な男であるが、それでもだうやら梵ぼんの本義をやや会得することが出来たやうである。また数論哲学や勝論哲学、ミーマンサーとか瑜伽ゆが哲学など婆羅門ばらもん秘奥の哲理に就いても思索を重ね、つづいて仏教の本義を会得したいと勉めてゐるが、数年の思索の結果阿頼耶識あらやしきも理解し得たつもりであるし、起信論の真如や龍樹の空観も略ほぼ体得なし得たと信じてゐる。最近は又、碧巌へきがん、無門関むもんかん等について日夕坐禅に心掛け、いささか非心非仏の境地をのぞいた。
諸々の哲人に比すれば赤面の至であるが、ともかく一応の修養は積み得たと思ふ。すくなくとも、一代の繁栄を決すべき大事の際に、不覚にも酔ひ痴れてしまふやうな修養の不足は再び見ることが出来ない筈である。
さて然らば自分の特殊な能力は入院後だうであつたかと言へば、病院は鉄道の駅ではないから自分はもとよりパンチを所有する筈がないし、かりにパンチがあつたとしても患者を乗客に仕立てて切符を切るといふわけにはいかない。
とはいへ自分は鉄格子の部屋の中に幽閉された身の上であるから、株式の予言が出来ても、だうにもならない次第なのである。必要は発明の母と言ふが、予言の如き霊感でも亦その通りで、自分にその必要がなかつたから、自分は長日月霊感を忘れた日々を送つてゐた。
然るに自分は昨今既に全快して常人と変りがないから、生憎病院の予算の都合で就職不可能ではあるけれども、実際は看護人同様の仕事をする身となつてゐる。従而、公然と行ふことは出来ないが、暗黙の了解によつて外出も出来るのである。
それゆゑ予言の能力も利用のできる見込がついてきたわけで、もとより天賦の能力であるから、自分にこのやうな意識が生じると共に、予言の能力も忽ち復活したのであつた。
のみならず、今回の能力はすでに環境に順応してパンチも乗客も不要な様式で復活したばかりでなく、従前の能力は専ら乗客の手によつて他動的に暗示を得たにすぎないのだが、復活した能力は何時いつ如何なる場合でも与へられた課題に対して自発的に特異なる心境を誘導することにより自在に霊感を発揮し得るところまで進んでゐた。
自分は昨年運動会の当日が生憎雨天であることを十日も先に予言して、当日の諸準備を延すやうにと進言したにも拘らず、人々が耳を藉かさなかつたがために、台所その他に大損をまねいたことがあり、又、病院内で起つた一事務員の重要な失せ物を霊感によつて発見し、その後も屡々しばしばかかる場合に能力を発揮して、人々の心服を買つてゐる。
然るところ、数日前、正確に申上げれば×月×日のことであるが、はからずも自分は重大な霊感を得て、ここに再び一代の浮沈を決する大事の秋ときが近づいたことの予告を受けた。
即ち×月×日の夕刻のことであつたが、自分はそのとき毎日の習慣通り封筒貼をやりながら、ふと顔をあげて鉄格子の外を眺めたのである。
そこは病院の裏庭であつたが、こんなところは庭掃除の小使かオチャッピーの看護婦共がキャッチボールでもする時でなければ殆んど人影のない筈の所で、どこへ通ふ通路にも当らないから、まして此処を急いで通らねばならないわけは一向なささうな場所であるのに、今しも一人の若い医者が散歩といふには忙しすぎる足どりで、せつせと横切つて行くのである。
オヤ/\あれはたしか内科のなにがしさんだなと分つたが、と、それと同時に、自分は首を突延すだけでは足らなくなつて、思はず立上つてゐたのである。
といふのは、この年若いお医者さんはそんなこととは一向知らずせか/\と自分の視界から歩き去らうとしてゐるのに、彼の霊気は慌ただしく頻りに何事か自分に向つて叫んでゐる。
自分は窓際へ駈寄つて鉄格子から覗いてみた。さうして自分は次の言葉をききとることが出来たのである。
即ち、株式市場に又不測の変動が近づかうとしてゐる。さうして貴公の一代の浮沈を決する秋が再び近づいてゐるのである。貴公もとより六年前の大失敗を銘記してゐるに相違ないが、そのために若干の修養も積むことが出来たわけで、貴公のためには又とない試煉でもあつた。六年間の修養が決して徒爾とじではなかつたことを神かけて示すべき日が近づいたのである。云々。
鉄格子の内側の人物が二丈もある塀の外側へ出る感動といふものは多感な少年が外国旅行に船出する歓喜によつても類推できない程であるから、この時自分の感動が異常なものであつたことは先づ筆舌に尽しがたい。
自分は深甚な感動のために、勇壮快活になるよりも、むしろ著しく悲愴になり、陰気になつた。心は更に浮立たず、忽然として沈みこみ、異様な悲哀がこみあげてきた。
自分は鉄道の従業員になつた頃から、だういふわけだか涙が出なくなつたのである。激しく感動することは人並に屡々あつて、心も泣き、生理もたしかに泣いてゐるのに、だういふわけだか涙が全く出てこない。この時も自分は泣いたが、涙は流れてこなかつた。自分は心に堅く誓つた。立上るべき秋が来た。六年の修養。言はれる迄もなく、これを忘れてなるものではない。
歌舞伎の愁嘆場のやうなものが実際あつたらをかしなものだが、そのとき自分は愕然と鉄格子から外を覗いて阿呆のやうにぼんやりしてゐたものである。
ところがここに、かねて自分と親交あつた看護人なにがしといふ人があるが、この男が自分の背後へやつて来て、自分の肩をそッと叩いた。さうして自分に、だうしたね、大きな霊感があつたのぢやないかね、と言つたのである。
看護人なにがしはキリスト教徒であつた。尤も、キリスト教徒といふものが日曜日毎に牧師の説教をきいたり教会へ寄進したりしなければならないとすると、なにがしはこの範疇にあてはまらないことになるが、いはば、なにがしはキリスト教徒の殉教的情熱を我物とした苦業者のひとりであつた。彼の信条とする宗教は意識的に極度に思索が排斥されて、行ギョウが全てをなしてゐる。彼に向つて宗教論を吹きかけても、彼の返答をききだすことはできないのである。彼は徒に空論を拈弄ねんろうする代りに、患者達の汚い便所を黙々と洗ふ。それが彼の宗教であり、この地味な然し偉大な苦業者の行ギョウなのである。
自分は看護人なにがしの唐突な言葉をきいても敢て驚くことはなかつた。このやうな掛値なしの行者には全てが分る筈である。思索といふ貧しい智慧の実によつて積む修養と全てを行ギョウに代へた人の修養はすでに雲泥の違ひがあるし、又このやうに地味な行者は地味な奇蹟を持つものである。自分は敢て驚くよりも、やつぱり分る人には分るものだなといふ一種の安堵を覚えたものだ。
自分は彼の問ひに答へて、君の賢察の通り大きな霊感があつたのだと言はうとしたが、また感動がこみあげてきて、声がでない始末である。
そこで自分は言葉の代りに彼の手を執り、力をこめて握りしめたが、これまた感動がこみあげて、力がいつかな加はらない。とはいへ彼には通じるから、なにがしは頷いて、立去つた。
自分は看護人なにがしの友情によつて、若干の自由——然しこの大いなる不自由の中では莫大な自由——便宜を受けることが時々あつた。先にもお話したやうに、自分が時に外出することが出来たのも、主としてなにがしの友情のせゐであつたのである。然らば自分の外出がどのやうにして行はれるかと言へば、概ね夜の十時過ぎ、十一時前後、全病院がまつたく寝静つた後に於て行はれるのが通例で、理由の第一は自分が患者であるためよりも、看護人の夜間無断外出が既に抑々そもそも規則を犯すものであるからに外ならない。
而して、かかる深夜の外出で、自分に許された享楽が何物であるかと言へば、自分等は草深い田舎の道、特に畑の細い径を近道して、町はづれの、但し自分等の側から言へば町の入口のおでん屋で十銭の泡盛を飲むことなのである。
さて霊感に対処すべくあれこれ手段をねつてみたが、鉄格子に幽閉された身の上では全くもつてだうすることも出来ない。
何はともあれ外出するのが第一だから、全てを看護人なにがしに打開けて腹蔵なく相談するのが先決条件にきまつてゐる。
で、自分は看護人なにがしに霊感の重大なことを囁いて、猶予すべき場合でないから、早速今夜おでん屋へ走つて細かく相談したいむね申入れた。
もとより彼は諾いて、生憎その日は夜になると猛烈な豪雨になつたけれども、荏苒じんぜん時を空費するほど此の際危険なことはないから、十時すぎ、全病院の熟睡を待つて、自分等は豪雨の中へ走りでた。
自分は夜を迎へても未だ亢奮が持続してゐて、愈々おでん屋へ向つて走りでるといふ時には、又もや矢庭やにわにこみあげてきた感動で相当混乱したらしい。窓を打つ豪雨の音をきいただけでも容易ならぬ荒天がすでに分明の筈であるのに、晴天の夜と同じやうに下駄をはき、番傘を探しだして、さて出掛けようとしたものである。
なにがしは自分の手から番傘をとりあげて、下駄を脱ぐように命じた。それから彼の身支度と同様に着物の裾を股までまくらせ、そこで二人は跣足になつて豪雨の中へ駈けだした。
下駄などはいてゐようものなら何べん転がることになつたか知れないし、手とか足とか骨折したかも知れなかつた。番傘などは怪我するためにわざ/\刃物を持つやうなものだ。何と言つても一寸先も見えない暗夜で、畑の小径は平常無事に通れたことが不思議なぐらゐデコボコである。辷すべり放題に辷つた。事前にこれを察知したのは流石に修養のたまもので充分敬服に堪へないが、それでも自分は何べんとなくひつくり返つた。けれども激しい亢奮でむやみに胸が一杯だから、実のところ、自分は唯もう走るといふ無限の動作を意識しつゞけてゐたのみで、転んだことが記憶になかつた。
おでん屋へ到着してのち看護人なにがしにおや転んだやうだねと言はれ、泥まみれの手足や着物を指摘されて、成程さうかと納得した有様である。
なにがしはおでん屋の盥たらいを借りて自分のからだを洗はせてから、着物を洗濯してくれた。この親切は先にも説明した通りひとへに彼の殉教的情熱によつて一貫された犠牲精神の発露であつて、非凡な修養を物語る適例である。即ち彼はそれが可能なことであるなら将まさに死せんとする者と自分の命を取換へることも敢て辞せない人である。
斯様にして彼と自分は慎重討議を重ねたのち、ここに即ち貴殿に宛てて手紙を差上げることとなつたのである。
貴殿もとより充分御賢察のことと思ふが、精神病院の公費患者である自分に金のないのは言ふまでもなく、看護人なにがしは手当を加へて毎月三十円なにがしを貰つてゐるにすぎないのである。
自分に予言の能力はあるが、生憎これを活用すべき資力に欠けてゐることを、ここに率直に打開けて申さねばならない。
即ち自分は貴殿の資力を利用してこの霊感を活用したいと思ふのである。
とはいへ自分は儲けの割前をいただくに当つて、霊力と資力の割合に就いて、極めて謙遜な主張を持つにすぎないことを先づあらかじめ明瞭に申上げたい。
自分は儲けの一割とも又一分とも申上げない。
差当つて自分の熱望してゐるものは先づ自由、即ち鉄格子外の生活なのである。而して自由を我物とするには三百円の金がいる。即ち自分の求める所の割前はただそれだけに過ぎないのである。
又、看護人なにがしに就いて言へば、彼は常にその一貫せる殉教的情熱によつて専ら犠牲的精神の示すところを生きる人で、求むる何物をも持たない人、特に一文の金銭も求めてゐないが、礼儀として、自分と同額を与へていただけば満足である。
就いてはここにいささか内密な話があるのだが、先程申上げておいた通り、六年前自分が不覚の泥酔によつてこの病院へ送られる前夜新宿の酒場で見かけた妖婦があつた。
ありていに申上げれば、自分はまだこの女のことを忘れてはゐない。のみならず、思ひだしては胸に苦痛を覚える次第で、朝、昼、夜自分は毎日思ひだすのが習ひである。
自分は自由を我物として、早速新宿の酒場へ駈けつけ六年間の愛慾を金によつて復讐したいと考へてゐる。公衆の面前でこそその浅薄な気位を持ちこたへてはゐるものの、裏面に於ては、金のためには犬鶏の真似も辞さない筈の女である。かやうに復讐を遂げ終つて、自分はここに六年間の試煉を終ることになる。
就いては復讐の費用として、特に自分にだけ金二百円の増額をお願ひしたいと思ふのである。即ち自分の求めるところは合計五百円のわけである。
而して右の分前は貴殿の儲けが何億円であらうとも不変であることを誓約する。
自分等は×月×日午後十一時より十二時のあひだ、なにがし区なにがし町のなにがしおでん屋に於て貴殿をお待ち致してゐる。なにがしおでん屋の所在は地図を同封致すから、それによつて辿られたい。
尚自分等は当日どのやうな風雨であらうとも貴殿をお待ち致してゐるが、自分は細かい碁盤縞の浴衣に鉄ぶちの近眼鏡をかけた五尺五寸三分の痩せた男であり、看護人なにがしの当夜の着衣は明かでないが、なにがしは年齢三十六才、ずんぐりと太つた五尺二寸ほどの色浅黒い男である。
然し尚念のため、目印として自分の胸に樫の葉をつけてゐるから、それに向つて話しかけていただきたい。若し又豪雨で着衣を洗はねばならないやうな場合には、裸体のこととて胸に樫の葉のさしやうもないが、そのやうな場合には左手に樫の葉をつまみながら泡盛を飲んでゐるから、そのやうな様子の男に話しかけていただきたい。
最後に蛇足ながら申添へるが、貴殿が巨富を得られて後に始めて割前をいただくもので、当日報酬をいただく意志のないことを一言お断り申しておく。云々。
三
以上が手紙の大意であるが、これが小型の原稿用紙に、ペンでもつて、一字一画ゆるがせにしない正しい楷書で最後まで乱れを見せず清書してある。
僕が大意を写しただけで丁度三十枚あるのだから、もとの手紙がどんなに尨大ぼうだいなものであつたか充分御理会のことと思ふ。
これだけ長文の手紙の中で、文字の書誤つて直したところがたつた六箇所あるだけである。ところで書誤つた六字といふのは丁重無類な桝形ますがたに塗りつぶしてあり、その上にお役所の文書と同じやうにはんこを捺して、それから訂正の文字が加へてあつた。
さう言へば手紙の最後の署名にも、又封筒の裏面にも、日付の下になんのなにがしとあり、やつぱりはんこが捺してある。
兜町の豪傑連も驚いた。
そのうちに兜町全体がひつくりかへした蜂の巣のやうにわん/\唸る時がきて、もはや一人も気違の手紙のことを思ひだす者がなくなつてゐた。手紙はなにがし商店の誰かの机のどこかしらに投げだされてゐた筈である。
ところが一日の騒ぎが終つて、さて人々が気がつくと、だうしたことだか手紙がどこにも見当らない。
草を分けても探しださねばならないやうな手紙ではなかつたから、それつきり手紙のことはみんなが忘れてしまつたのである。
気の毒なのは手紙を書いた御人である。考へてもみなさい。封筒を貼つて一日に十銭稼いで、二銭の餅菓子で栄養を補給したり、たまには一本一銭のバットを吸つたり、さてそのうへで婆羅門の秘巻を買つたり、あげくの果には一杯十銭の泡盛も飲んで、それがみんな一日十銭の稼ぎの中から割出すのだから、又そのうへに何十枚の原稿用紙、べた/\貼つた切手の値段ときた日には、それだけでもう何百日の稼ぎに当るか分らない。血が滲んでゐるなどといふのは、かういふ時に使はなければならないのである。
手紙の書写にしたところで、筆耕のまる一日の仕事といふのが四五十枚のものだといふのに、第一どんな几帳面な筆耕でも一字一画筆法正しい楷書で書くといふ者はない。
思ふに手紙を書きあげるまでまる/\数日かかつた筈で、荏苒日を空むなしくすべからずなどと言つて豪雨の最中おでん屋へ駈けつけてゐるほどだから、その翌日には早速手紙の執筆にとりかかつたに相違ない。手紙の中には、この重大な霊感あつておでん屋へ駈けつけた日の記憶すべき月日が記してあるのだが、それが丁度数日前の月日に当つてゐるのでも這般しゃはんの苦吟が分るのである。
その数日といふものは全く手紙にかかりきりで、封筒も貼れなかつたに相違ない。さすれば栄養の補給もできず、バットにありつくこともできない。かへすがへすも気の毒なことばかりである。
全くもつて株屋の心臓ぐらゐお話にならないものはないのである。ここにひとつの教訓を胆に銘じる必要があるが、全くの話が、金もないのに夢株屋へなど手紙をだすものではないのである。
四
然しいかほど霊気のこもつた手紙でも、相手にされないからといふので羽が生えて飛んで帰るといふことはない。
盗んだ男がゐたのである。
「いやア。こんちはア」とかう言ひながら、四十五六の年配で鼻ひげなども生やしたくせに、御用聞と同じやうな笑ひ方して、左様、丁度その日の午頃ひるごろであつたが、なにがし商店の店先へ顔をだした男がある。
深川区なにがし町なにがし番地オペラ劇場主人なんとかの草石といふ雅号を刷つた大型の名刺を所持に及んでゐる、何のためだか知らないが、かうやつて時々なにがし商店の店先へ顔をだすのである。それから勝手に店内へ上りこんで、自分の小屋へしよつちうかかる浪花節の口調でもつて時局や外交問題などを一席弁じ、いつのまにやら又消えてゐる。
この先生が手紙のことを小耳にはさんで、これこそ天の与へたものだとそッと懐中へ忍ばせてしまつた。
さて人気のないところへ来て、何十枚かのこの手紙を笑ひ声ひとつ立てずに読み切つたのがこの先生で、再び手紙を懐中深くをさめてから、株屋なんてえものはこれでお金が儲かるのだから不思議だね。それにしても運てえものはやつぱり頭の問題だよ、などと呟いてゐる。
つまり相手が気違だから笑ひごとではないのである。正気の易者の予言などをかしくつて信用できるものぢやない。かういふ先生の言ひぶんであつた。
手紙の文面から判断しても、流石に修養があるだけに、この気違は却々なかなかきつぷの良いところがあり、謙遜の美徳など心得てゐる。内密な話であるがと切出して自分だけ二百円余計稼いでゐるあたり充分呼吸をのみこんでゐて駈引は相当達者なものであるが、それにしても女を口説く資本モトデだけで沢山だといふ心掛はこれまた至極さつぱりしてゐて見上げたものだし、二百円の金を握つて六年前の新宿さして駈けつけようといふ心根もほろりとするほど味がある。
同じ目印をつけるにしても、カーネーションの花をさすとか、左の手に大根を握つてゐるとか、さういふことは言はないで樫の葉といふのが渋い。
先づ試みに明日の予想でもさせてみて、充分予言の実力を験したうへで大きな勝負にかかるから、こつちの方は悪くいつても二日か三日の閑ひまをつぶしただけの損で、なに、それだつて、くだらぬ寄席で欠伸あくびするよりましなぐらゐのものである。
さてここにたつたひとつの心配といへば、この気違が泡盛飲むといふことだが、こればつかりはいかさま婆羅門の秘巻によつて修養つんだ御人であらうが、なんのはづみで暴れだすか知れたものではないのである。
気違は怪力無双であるといふから突然ポカリと張りとばされて相当こたへることであらうが、それにしても二つか三つ殴られるうちには逃出すことが出来るであらう。
五
×月×日の夜がきて、深川オペラ劇場主人は指定のおでん屋へ出掛けて行つた。
いかさま町も愈いよいよこれが外れである。そこの裏からもうひろ/″\となだらかな起伏を流した畑になる。小便するのに裏口あけて一足でると、頭の上で玉蜀黍とうもろこしがガサ/\と鳴り、畑は一面虫の声で、どこまで続いてゐるやら分らず、遠方に黒い森影が見える。
屋台店にやうやく毛の生えたやうなおでん屋は、それでも羽目板にハゲチョロのペンキなど塗り、一押し押すと圧つぶれるぐらゐ小意気な角度に傾いてゐる。
まさしく居る。——をりから星の降るやうな明るい夜で着物の洗濯する必要がなかつたから、なるほど胸に樫の葉をさした御人が、泡盛のコップをひとつづゝ前へ並べて、ただ黙然と居並んでゐる。
いや、どうも。深川オペラ劇場主人はことのほか初対面の挨拶にかけては自信があつて、につこり笑へば鼻ひげまでにこ/\笑ふといふ程だから、婦人選挙権獲得同盟の会長さんでも怖くはないと言ふのだが、この時ばかりはほと/\勝手が分らない。
こつちも泡盛のみながら先づおもむろにといふ手もあるが、ここのところで一手違へばポカリとくるのが目に見えてゐるところである。
「失礼ですが」と、ものの四尺ほど離れたところで——もつと離れてゐたいのだが、これ以上離れるためには外へ出るより仕方がない。で、彼は先づ何よりこれが大事だから、につこり笑つて、それから声をださうとした。
と、鉄ぶちの眼鏡の奥からこれを黙然と観察してゐた樫の葉の御人が、一足先にすッと立つて、西洋の貴族ならかうもあらうかと思はれるやうな、首をいくらか斜にして、首から上の部分だけで極めてやはらかくお辞儀をした。
「お待ち致してをりました」
樫の葉の御人は静かな声だがハッキリ言つた。
動作は極めて落付いたもので、お辞儀にしても首ぐらゐしか動かさないのに、不思議にやんわりとした優美な線を描きだし、品が良く、充分礼儀を失つてゐない。
待人を迎へる顔付なども、田舎の人のスットンキョウな喜びやうもしてゐなければ、都会風に無理をしたお愛想笑ひもしてゐない。どちらかと言へば利巧な人よりも利巧なぐらゐ冷静で、どことなく憂ひの翳をほのかに秘めた幽かな笑ひを浮べてゐる。これが美女の顔であつたら、まさしく古今の名画に残る笑ひのひとつで、憂愁に神秘を重ね、なにかほの/″\とした人の世の悲哀の相を漂はした笑ひなのである。
愈勝手の分らないことばかりである。第一この御人の顔付はげつそり痩せ細つてゐて、なるほど栄養の補給が余程足りないことなども、充分納得できるけれども、ひとつには高邁深遠な精神が無駄な肉をそぎとつたやうな痩せ方で、何かかう西洋のお偉い人の、エマヌエル・カントとかエドガア・アラン・ポオとかいふ、さういつた哲人詩人の味のある華車きゃしゃで聡明で刃物のやうな顔付である。
深川オペラ劇場主人は人の顔付を判断して咄嗟にこつちの言葉使をきめてしまふ男であつたが、この時ばかりはてんで訳が分らないので、ただもう盲めつぽうに、いと丁重にお辞儀してゐる。
余所目よそめにも深川オペラ劇場主人があんまり面喰つてゐるものだから、樫の葉の御人がにつこりと笑つて、口を切つた。
「失礼ですが、この御用件の方でせうね」
樫の葉の御人はかう言ひながら、胸にさした樫の葉をつまみとり、これを深川オペラ劇場主人の鼻先へヒラ/\させて、ネ、これでせうねと頑是ない子供に物を言ふやうに、目の中へにつこり笑ひこむやうな親しい笑ひをしてみせる。
深川オペラ劇場主人はことごとく恐縮して、額や首筋をハンカチで拭き、それから扇子をとりだした。
「いや、どうも。これは甚だおそく参上致しまして」と彼は吃つた。「このたびは御手紙をいただきまして、実はもう早速お住居の方へ参上致さねばならない所でありましたが、却つて御迷惑かと遠慮仕つかまつりましたやうな次第で、まことにもつて御親切御丁寧なる御手紙で、一同ただもう感激致してをります」
「こちらこそ突然失礼千万な手紙を差上げて恐縮に存じてをります」
と、樫の葉の御人は一礼したが、まだ指先に樫の葉をヒラ/\させて、時々自分の頬へ当てたり、かざしたりしてゐる。
「ではお掛け下さいませんか。こちらの方は手紙にも申上げておきました同僚のなにがし君です。幸ひ、ほかにお客もありませんし、夜もおそいやうですから、失礼ですが早速用談にうつらせていただきたいと存じますが」
「これはだうも恐入ります。わたくしから左様お願ひ致さうかと存じてをりましたところで。実のところ、席を変へて一献差上げなどしながら充分に御高説拝聴させていただきたいと斯様申上げたい所ではありまするが、生憎のお時間で。いづれ又改めて新宿へなとお供させていただくことに致しまして、本日のところは。おい、泡盛を三つ。それから何か肴を。なに、何でも出来るものでいいが、栄養の豊富なものを三人前」
と、深川オペラ劇場主人は坐直すわりなおして、腹にひとつ力を入れた。今しがた夕めし食つてきた筈であつたが、さつきから、だうも奇妙にお腹のすいた感じである。笑ひごとではない。気違に押切られては目も当てられない話なのである。
六
「遠路わざ/\御足労下さいまして心苦しいほどに存じてをります。失礼ですが、あなたがなにがし商店の御主人でせうか」
「左様。わたくしが経営致してをります。まだ駈出しのことで、とても一流とは参りませんが、爾今じこん宜しく御後援、御助力のほどお願ひ申上げます。御手紙拝読致しました時は、この、何と申しますか、深く感動致しまして、これは容易ならぬ大事であると斯様に考へて店の者にはまだ秘密に致してあります。わたくし実は丁度この一週間ほど前から痔を悪く致しましてな。好物の酒も控へねばならず、歩行にも一寸不自由で、乗物に揺られますのが又苦痛といふわけで、然し今宵は一代の繁栄を決する大事の秋ときで人まかせには致しかねるところから、かうして出向きましたやうな次第で。充分にお相手もできず、不調法は特にお許しを願つておきます」
「では早速お話致しますが、先程なにがし君とも相談して僕達の考へをまとめたばかりの所ですが、先日差上げた手紙には、予言の場所、方法などに就いては申上げてありませんでしたね」
「なるほど。たしか、そのやうでしたな」
「あの手紙にも申上げてある通り、予言はあなたの御指図に順したがつて、すぐこの場ででも、また何処ででも出来ますが、霊者にも気組の相違といふものがあつて、気組によつて霊感の感度にも深浅の有ることは疑ひ得ない事実です。哲学者の思索、詩人のインスピレーションでも、その時の気組や調子によつて、思索の結果や作品の出来に深浅上下があることと丁度同じ理窟になります。このやうに申しますと、何か僕の霊感が怪しげなものに聞えますが、さういふ不安は有るべきものではないのです。つまり霊者とは申しましても、人間であつてみれば、その日の調子や気組によつて出来不出来はまぬかれないもので、たとへば気組の劣つた日は、あすの天候を予言するにしましても、さしづめ新聞の天気予報と同じやうに晴雨の別を感じるぐらゐに過ぎないものです。調子も高く気組の張つた時の予言は、何時何分頃にポツ/\来て、何時何分頃に霽はれまを見るが又何時何分にはドシャ降りになつてしまふ、然し何時何分頃には小やみになつて何時何分に又ドシャ降りにもどるけれども結局何時何分ごろには上つてしまふ、僕自身それまで細かく知りたい意志は微塵もないのに、目のあたりパノラマに向つてゐるやうに次々と勝手に分つてしまふのです。気組の高い日といふものは万事がさうで、もとより株の予言にしても例外なく同じことです」
「成程々々」
「僕は今ここにかうして極めて平凡に日常普通の心持であなたと話してをりますね。勿論このやうな日常普通の心持には、武人が戦場に望むやうな気組といふものがある筈のものではありません。では、このやうな日常普通の心持から予言が出来ないものかと言へば、かうしてお話してゐるやうな手軽さではいきかねるかも知れませんが、もとより霊者にとつて霊力は偶発的ではありませんから、今でも、ちよつと気組を改めて特定の精神状態を誘導することによつて、直ちに霊感を呼ぶことは決して不可能ではありません。然しながらそれは唯一応の霊感で、明日の天候は晴れであるとか雨であるとか、その程度の大ざつぱな予言しか出来る筈がないのです。真に怖るべき予言、よくもここまで分るものだと僕自身驚くやうな高度の霊感は、唯一応の霊感とは全然異質に見えるほど照見無礙むげ玄妙千里を走るが如き概があります。全身全霊ただ電気とでも申しませうか、その時は僕の全部が眺める目、眺める鏡、眺める機械で、同時に僕の全部が又そつくりひとつの動く絵で、即ち次々と展開する未来図のパノラマに外ならぬのです。いはば活動写真を写す技師が僕であり、幕に映る活動写真が僕であり、それを眺める見物人が僕であります。すべてが渾然として一分の隙もなく、唯ひとつの僕といふ霊気、あるひは電気なのですね」
「いかにも/\」
「宿縁と申しませうか、このたび縁あつて——仏教では縁といふものに理外の理、宿命的な義理を与へて尠すくなからぬ重要なものに扱つてゐますね。かうしてあなたにお目にかかり膝つき合せて語合ふことが出来まして、又、あなたの御援助によつて一生の大事を決することもできるといふ、これは深い縁であらうと思ふのですが、従而、このたびのことに就いては、自分の気組といふものも普段のものではないのです」
「いかさま。さうでせうとも」
「けれども気組と申しましても、たとへば詩人が机に向つて俺は傑作を書いてみせるぞといくら一人力んでみても、気組だけでは※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の卵のやうに易々傑作を生みだすわけにはいきません。気組の力を生かしてそれを傑作にまで発展せしめるには、それに気合といふものが重つて調子が合ひ、全てがひとつのパノラマとなつて走りださねばなりません。然らば気合とは何か、即ち気合とはある特定のコンディションから生れる所の「ハズミ」であります。即ち気組といふものは発動機のやうなもので、これには油がなければならず、又これを動かす人の手が加はらなければ動かない、それがつまり「ハズミ」であります。では特定のコンディションとはどのやうなものかと言へば、これは気組の質によつて各相違のあることで一概には言へませんが、平たく言へば、気組といふ発動機にハズミをつけ、霊感を呼びだすに最も都合の良い環境、条件といふことであります」
「なるほど」
「このたびあなたの鴻大無辺な善意によつて御援助を得ることとなり、いはば廃人と申すべき身でありながら万億の富を睨んで一代の興敗を一気に決することができるといふ、下郎変じて一躍大将となりかねない稀有の機会を与へていただくことが出来まして、さて僕のひたすら祈り希ふところは、この感動と気組に最上の気合を与へ、最善の結果を得て鴻恩に報ひたいといふこと、唯これのみであります。もとより先程から幾たびとなく申すやうではありますが、単に一応の霊感を呼びだすだけのことでしたなら、この場所で今すぐにでも結構できることですが、僕の立場と致しましては、このやうな大事の際にそれでは甚しく不本意なことでありますし、また、あなたの立場と致しましても、決して御満足ではなからうと思ふのであります」
「いかさま。これは色々と御高配をいただきまして、わたくし、ただもう感激致してをりますが、御言葉の通り、霊感にも様々と深浅上下の品々がありまするものでしたならば、一世一代の大事の際でもありまするし、深い品、上の位をいただきたいと云ふことが、これはもう掛値なしの人情と申しませう。そこで、霊感を呼びだすに都合の良い気合のかかつた環境、たしかそのやうなお言葉でしたな。わたくし、この哲学といふものに不案内でとんと物分りの悪い方でありまするが、気合のかかつた環境と申しますると、つまりこの下世話におみきあがらぬ神はないなど申しましてな。待てしばし天下とるまで膝枕チョイ/\などと、これは官員さんが羽振をきかせた頃の唄で、天下の政治は待合の四畳半できまるものだなどと申してをりますが、これが即ち政治の気合といふもの。霊感の気合の方は下世話の噂にないことで、わたくし共俗人とんと推量致しかねますが、やつぱりこの天下の政治と同じやうな筋でせうかな」
「さて、それが問題なのです。つまりですね。詩人は如何なる時又如何なる環境に於ても詩をつくることが出来るでせう。これは分りきつたことですね。けれども至高のインスピレーションによつて傑作を創りうる時は一生のうちにも数へるほどしかありません。霊感の場合が又これと略ほぼ同様なものです。即ち、如何なる時又如何なる場合に於ても一応の霊感を呼びだすことは出来ますが、至高の気合によつて高度の霊感を呼びだすことが出来るのは一生のうちにも数へるほどしかありません。且又、詩人のインスピレーションと同じことで、至高の気合がどこに在るかといふことは分る筈がないのです。どこぞこの街角の喫茶店に詩人のインスピレーションが転つてゐるなど言へば、これはをかしな話ではありませんか」
「いかにも」
「然しですね。今度の場合に限つて、このをかしな予想が案外不可能ではないのです。といふのは、予言の対象が明確なうへ、予言の結果が一生の浮沈に関する重大な意味を持ち、従而、僕の気組が異常に高く、触るゝもの全てを切る妖刀の如く冴えてゐて、多くのハズミを要せずに動きだすことが分るからです」
「成程々々」
「然らばその環境条件とは何かと言へば、即ち僕が直接株式市場へ出掛けることに外なりません。触るゝもの全てを切るが如くに冴えてゐるこの高い気組のことですから、直接株式市場の熱気奔騰する雰囲気中に身を置くや否や、全身全霊あげて忽ち火閃となり、霊感の奔流と化して走るだらうといふことが最も容易に想像することが出来るのです」
「ウム/\」
「然しながら、生憎ここに重大な障碍に気付かなければならないのですが、既に手紙でくはしくお話致してありますやうに、つとに全快してゐるとは言ひながら表向きは患者として幽閉されてゐる身の上で、僕には白昼公然たる外出の自由がないのです。従而、白昼公然株式市場へ赴くことも出来ません。それゆゑ僕が株式市場へ赴くためには何等かの手段を施さねばならないわけであり、ここに手段といふものが唯二つしかないのです。如何やうに工夫を凝らしてみても、唯二つあるのみであります」
「…………」
「その第一は過激な方法で、即ち直ちにこの場から逃亡して明朝株式市場へ現れるといふ手段なのですが、これはいささか穏当を欠いて種々不都合がともなひ、先づ差当つてなにがし君の首が危いことにもなり、又、僕とても見付かり次第病院へ逆戻りといふわけですし、事の成就を見ないうちに見付かるやうなことがあれば、元の木阿弥といふことになります」
「成程々々」
「そこで第二の方法ですが、要するに可能な手段はこのひとつで、事の成就をはかるためにはこの方法をとる以外には全く仕方がないのです。それはつまり明朝あなたが先づ病院へ訪ねて来て下さるのです。それから院長にお会ひになつて、あなたの職業身分など披瀝されて、責任をもつて僕の引受人となることを声明していただくのですね。肉親でないから不可だといふ話がでるかも知れませんが、その時はつまり、退院後は店員として監督使用するものであるから父兄同然であつて、保護に万全を期するむね断乎主張していただけば面倒はありません。その日直ちに僕は退院することが出来ます。さうして何ひとつ憂なく全霊をあげて予言に集中することが出来るわけです」
七
なんとまあ話の運びの巧い奴だと、深川オペラ劇場主人はたまりかねて、つい泡盛を一杯ぐいと飲みほした。
気違などといふものは案外みんなお喋りが達者なのかも知れないが、日本の外交がから下手だなど噂になるのは、これはもう外交官がみんな正気のためである。
だが気違のお談議に感心してはゐられない。どこの間抜を探したつて、わざ/\気違の引受人となり、月給払つて、断乎保護に当る馬鹿者がゐる筈がないではないか。
要するに問題といふのはここの所で、気違に言ひくるめられて、ぼんやり帰る奴はない。
愈これは——と、そこで彼は考へた。だうやら愈ポカリとやられる段取へ段々近づいて来たやうだが、ここまでくれば、もはやだうにも仕方がない。一か八か当つて砕けるまでである。
ポカリと来たら跣足になつてうしろも見ずにサッサと逃げだすことであるが、かうと知つたら——だから人は見栄外聞をはるものではないのである。気違に会ふのだから浴衣がけで沢山だのに、セコハンながらパナマ帽やら絽ろの夏羽織はまだいいとして、買ひたての桐の下駄など何の因果ではいてきたのか分らない。
それにつけても、ここに薄気味悪いのが看護人なにがしであつた。
成程手紙にある通り、身の丈は五尺二寸ぐらゐ、色浅黒く、ずんぐり太つてゐるのであるが、この御人唖や聾ではない筈だが、さつきから唯の一言も喋らない。尤も樫の葉の御人がのべつ幕なしに喋り通してゐるから、これまた仕方がないかも知れんが、さて然らば、ここにこの御人の十七吋インチもあるやうな大きな頸は曲げることが出来ないのかといふ心配が起つてくる。
といふのは、深川オペラ劇場主人がこのおでん屋へ罷り出てから相当時間もたつてゐるのに、この御人の十七吋もある頸は唯の一度も曲つたためしがないのである。従而、顔の位置が一度も動いたためしがないし、扨さて又顔の表情がビクリと動いた気配もない。
で、この御人の視線がまつすぐ向いてる先の方へ辿つて行くと、深川オペラ劇場主人の肩の上を素通りして璧に突当る筈であつたが、そこに裸体画でもかゝつてゐてそれを睨んでゐるといふなら、もうすこし色つやの良い目の色をしてもらひたい。この御人の目の玉ときては、大きくまる/\とむかれてゐるのに、どろんと濁つて、第一ちつとも動かない。
動物園へ遊びに行くと、昼間の梟と木菟みみずくがかういふ具合にヂッと止つてゐるものだが、あれだつて見た恰好は決して気持のいいものでないが、昼間は物が見えないのだと分つてゐるし、金網の中にゐるものだから、オヤ愛嬌のある先生だなどと大きなことを言ひながら眺めてゐる。この御人ときては、さうはいかない。
こんなにヂッと動かないのに、キリスト教の犠牲精神といふもので便所の掃除もするといふし浴衣の洗濯もしたといふから、魔法使のやうなものだ。
樫の葉の御人は痩せ衰へて吹けば飛びさうに見えるからポカリときても大して痛くはなさゝうだし、第一物腰が貴族的で応待なども人並以上にやはらかだから、ポカリとくる時ヒラリと体もかはせさうだが、木菟の先生の一撃ときてはノックバットで張り飛ばされるやうであらう。第一如何なる瞬間に如何なる角度から、ポカリとくるのか到底見当つかないのである。
木菟の先生は看護人だといふのであるが、素人の見たところでは樫の葉の御人の方がだう睨んでも真人間に近い様子に見えるから、精神病院などいふ所は何が何やら分らない。この調子では、お医者さんだの院長先生といふ人はどんな顔してゐるだらう。大きな椅子にドッカリと河馬かばのやうにふんぞり返つて、黙つて坐つてゐるかも知れん。
樫の葉の御人だけでも重荷のところへ木菟の先生が控へてゐるから、だう考へても一つ二つはやられることに極つたが、手ぶらで帰る馬鹿はないから、深川オペラ劇場主人はここで又につこり笑つて、さて、一膝のりだした。
八
「いや、お話はよく相分りました。実はわたくし、昨夜大きな金の茶釜を丸呑みにした夢を見ましてな。なに、なんのたあいもなく呑みこんでしまつたのですな。これは夢見が良いなどと今朝から喜んでをりましたところで。だん/\お話を伺ひますると、わたくしには何から何まで夢のやうな有難いことばかりで、やつぱりこれは正夢であつたなどと、実は先程からこのやうに考へながらお話を伺つてをりました。只今わたくしの店に、左様、丁度何人になりまするかな。いやもう働きのないのがウヂャ/\とをりましてな。生憎店をまかせても宜しいやうな、心棒になつてくれる腕達者が一人として見当りません。最近はお蔭様で店の信用が一段とつきまして、でまアここが発展の機会だなどと考へてをりました折柄で、なんとかして眼識もあり修養も積んだ人物を支配人格に迎へたいものだなどと日夜このことばかり悩みぬいてをりました。あなたのやうな霊力もあり修養も積まれた御方に来て働いていただくことが出来るなどとは、まさしく日頃信仰いたしまする棘ぬき地蔵の御利益で、願つてもないことであります。月給なども出来るだけは致しまするが、然しこの月給などといふものはどのみちほんの些細なもので、これは霊感の大小によりまして、その都度配当を差上ることに致さうと斯様考へてをります。で、店へ来て働いていただくに当りまして、この、霊力ある御方を俗人の分際で試験致すなど申上げては、こやつ陽気の加減で少々のぼせが来てゐるやうだなと定めし御心外のことかと存じまするが、なんと申しましてもわたくし共俗人眼識がありませんので、一応試験のやうなことを致さなくては人の値打が分りません。いやはや、思ふだに笑止の次第で、話が逆でありまするが、なんに致せこれが俗人社会の慣例で、かう致さなくては我々人が使へぬといふ生れつき無力無能に出来てをります」
「御尤ごもっとものことです。就職試験といふわけですね。然し、手紙にも申上げてある筈ですが、僕は学校で経済を学んだこともなく、特に株に就いでは全くの門外漢で、ただ霊感の能力をお貸してこれを活用していただく以外には手腕もなく才能もない男なのです」
「いえ、もとよりそれだけで結構で。経済やら株のことやら齧つてみてもおいそれとお金の儲かるものではありません。この節株や経済に明るい人間など掃溜へ入れてお釣のくるほどありますが、かういふてあひはわたくし共の商売にはカラ役に立たないといふ先生達で。もう私共に多少なりとも霊感の能力がありましたなら、日本中の金気をみんな吸ひとることも易々たるもので、まして六年間御修錬の霊感ときては、アメリカの金気も物の数ではありません。で、この霊感の威力を試験するなど申上げては愈奇怪で、霊の尊厳をわきまへぬ不埒な奴とお腹立でもありませうが、わたくし共俗人かう致さねば宝石も砂利も見分けがつかないといふ愚かな生れで、ただもう面目次第もないことであります。で、甚だ申しかねるところではありまするが、ひとつ、かういふことに致させていただきたいと存じます。つまり、この、先程のお話に一応の霊感といふのがありましたな。あれでもつて、何か二三日先のことを極く大ざつぱに予言していただく。わたくし、その結果を見まして——いや、もう、外れる筈のものではありませんが、ここが俗人の浅間敷いところで、かうして充分納得させていただきましたうへで、早速とる物もとりあへず病院へ駈けつけまして、河馬の先生、イヤ、院長の先生にお目にかかり、直ちに退院していただくことに致しませう。その節は病院の支払など何万円でも充分に用意して参ることに致します」
「お話は良く分りました。勿論、あなたは僕の霊力を御存じないのですから極めて至当な話で、気を悪くする筈はないのです。却つて霊力を納得していただく好機会を得たわけで、喜んでゐる次第ですが、では、何か、明日の天候でも予言しませう」
「さ、それが——」
と、深川オペラ劇場主人は、ここで又、一膝ぐいと乗りだした。
案じるよりは生むが易いとはこのことである。然しここで余りにや/\したりすると、ポカリとやられることになる。
深川オペラ劇場主人はふところから何やら紙をとりだした。
「実はわたくし、先日お手紙をいただきました折に、いやもう、これが俗人のなさけないところで、とにかく一応試験といふものをさせていただき、霊力を納得させていただいたうへ、御共力願ふことに致さうと斯様に考へましてな。今宵こちらへ参上致すにも、実はかうして用意して参つたやうなわけであります。これは丁度明日から行はれまするなにがし競馬の登録馬の出馬表で、ここにかう馬の名前が幾つも書いてありますが、この勝馬をひとつづつ予言していただきたいと存じましてな。大変御手数で恐入りますが、この一応の霊感で極く大ざつぱなところを予言していただくにはこれが丁度手頃かと考へましたわけで、そこでかうして用意して参つたやうな次第であります」
「それは好都合でした。二つの一つを予言するのも百の一つを予言するのも、霊感の場合は結局同じ労力です。では、その勝馬をちよつと予言しませう」
と、樫の葉の御人は極めて気軽に出馬表をとりあげた。
九
気違の予言などといふものは、色々と奇怪な作法を伴ふものかと思つたのに、これは又、至極あつさりしたものであつた。
樫の葉の御人は出馬表を前へひろげて、さて鉛筆の芯が気になるといふ風に、鼻先へかざして眺めたり、五六字書いたり消したりしてゐたが、突然いとも無造作に第一競馬第二競馬とヒョイ/\点を打ちながら勝馬の印をつけはじめた。予想屋と同じぐらゐ無造作である。
却つて予想を終つた後に膝の上へ掌を組んで一分間ほどしんみりと目を閉ぢてゐる。霊感を頭の抽斗ひきだしといふやうな所へしまつてゐるのに相違ない。目を開けて、出馬表を深川オペラ劇場主人に手渡した。
あんまりアッサリしてゐるので、深川オペラ劇場主人は拍子が抜けて言葉がでない。鮒のやうな目付をして、出馬表を敬々うやうやしく押しいただいてゐる。
「では後日迎へに来ていただく時をお待ち致してをります。いつでも退院できるやうに荷物をまとめておきますが、四五枚の着換と二十冊の書籍だけで行李ひとつに足りないほどの荷物ですけど、ぶらさげて歩くわけにはいきませんので、円タクを用意して来て下さるやうにお願ひします」
と、樫の葉の御人は立上つた。すでに綿密な引越の計画も立ててゐる。さてそこで、一段と声を落して、かう言つた。
「就きましては、退院の支度があるものですから、二十円拝借させていただきたく存じます。厚かましいお願ひですが、いはば只今の予言代といふことにして——何十倍も儲かりますよ。フッフッフッフ」
いや、どうも、深川オペラ劇場主人は冷水を浴びたやうにぞッとした。樫の葉の御人の眼が薄気味悪い笑ひと共にギラリと光つたからである。
これが気違の目といふものであらう。それでなければ殺人鬼の目の光である。あまつさへ、こつちの心の裏側をみんな見抜いてゐるやうな気持の悪い笑ひ方をする。
だうにもこれは仕方がない。で、深川オペラ劇場主人は十円札を二枚とりだした。
「あなたの二十円はわづか一日の小遣にも当らないことでせう。ところが僕の二十円は丁度半年の食費に当つてゐるのです。公費患者に給与する食事は一貫目いくらの残飯ですからね。ところが僕達はこの残飯の又残飯を一銭一銭と買つて腹の足しにすることがあるのです。犬や豚の食物を僕等は金で買つて食べなければならないのですよ」
などと言ひながら、然し、樫の葉の御人は十円札を大切にするといふ風が一向にないのである。蟇口へも入れなければ、袂の中へをさめようともしない。手にぶらさげて、さつきまで撮つまんでゐた樫の葉と同じやうヒラ/\させてゐる。
「豚や犬にも劣つた廃人の願ひをききとどけて、このやうな遠方までわざ/\御足労下さいました温いお心は、棺に這入つてのちも忘れるものではありません。厚く御礼申上げます」
と、樫の葉の御人は丁重なる挨拶を残し、いまだに十円札を手にヒラ/\とさせながら、裏口から畑の中へ消えこんだ。
すると木菟の先生もこれにつゞいて、これはたうとう最後まで一言も喋らなければお辞儀も致さず、十七吋もある頸を黙々と振り向けて、これもまつくらな畑の中へガサ/\と消えこんでしまつたのである。
十
なにがし競馬で深川オペラ劇場主人が大儲でもしてくれゝば、芽出度し/\といふことになり、尚その上に、兜町には二人づれの不思議な旦那が現れて、日本国中の金といふ金をみんな二人のふところへ収めることになつたかも知れなかつた。
生憎さうはいかなかつた。
僕は悲劇が嫌ひのたちだが、だうも事実といふものは枉まげることが出来ないのである。
なにがし競馬で深川オペラ劇場主人は一日地団太踏んでゐた。流れる汗を拭くのも忘れて埃をかぶつてゐるものだから、汚い顔をして、人波をわけて走つてみたり、立止つて唸つてみたりしてゐる。
東京帰りの汽車に乗つても正宗の壜を鷲掴みにして地団太踏んでゐるのである。近所の人々は気が気ぢやない。これはだうもとんだ悪相の気違と乗合して困つてしまつたなどとぼやいてゐる。
まつたくもつて、巧々うまうまペテンにかかつたのである。とはいふものの、さて熟々つらつらふりかへつてみるに、はなから臭いと思はないのが不思議であつた。
抑々気違の弁説があんなに爽やかな筈がない。なんとかかんとか奇天烈な風に持廻りながら思ふつぼへ話を運んで行くのであるが、あのへんの条理整然として、気違の業ではないのである。
顔付だつて利巧さうで、知らずに会へば、気違どころか文士の先生ぐらゐには踏んでしまふところである。
そこは連中心得たもので、さてこそここに木菟の先生といふ妙ちきりんな相棒を並べておく。先生が目の玉むいて黙然とをさまりこんでゐるものだから、樫の葉の御人の弁説も正気のものとは聞けなくなつてしまふのである。
第一考へてみるまでもない。気違が深夜病院を脱けだして、泡盛を飲んでゐるなんて、こんな奇怪な出来事が文明国の首都に於て行はれる筈がないのである。
それにしても手数のかかつた方法で騙かたりを働く悪人共があつたものだ。探偵小説によると、前もつて犯行の期日を予告して仕事にかかり危険を冒すことを無上の趣味とする泥棒氏などがあるさうだが、樫の葉の御人・木菟の先生もこのでんで、先づ何十枚の手紙から始まつておでん屋に於ける会見となり手間をかけて散々人を嘲弄したうへ騙るのが趣味であるとしてみると、なんとも始末に終へないほど後味の悪い話である。
ポカリと来ては大変だと野だいこも及ばないほどへいつくばつて、せつせと御機嫌とつた様子を思ひだし、それが奴等の笑ひの種になつてゐるのを考へると、わッといふ唯一声の悲鳴と共に風となつて消え失せる嘆きを感じてしまふのである。
あの界隈の与太者共に相違ないが、被害はたつた二十両でも、やられ方があくどくて、うつたうしくて我慢がならない。
深川の顔役ともあらう者が——それほどでもないが、深川の旦那ともあらう者が——これもだうも、それほどでもない。とにかく顔にかかはるではないか。
そこで翌日、深川オペラ劇場主人は日当一日五円づつ仕事のあとでは充分に振舞ひ酒といふ約束で二人の暴力団を雇ひ入れ、先づ精神病院へやつてきた。
「旦那」
暴力団の一人が精神病院の受付から浮かぬ顔付で戻つて来て、自動車の中の深川オペラ劇場主人に報告した。
「だうも与太者ぢやアなさゝうなんで。さういふ名前の気違がほんたうに入院してゐますとよ」
「そんな話があるものか」
「然しねエ。ちやんと名簿にさういふ名前があるんでさア。相当古株の気違だつて言つてましたぜ」
「それぢやア、なんだ。与太者が名前をかたつてるんだ。してみるてえと、これはなんだな。与太者といふのは此処の小使か看護人か看護婦の兄とか弟といふ奴に違ひねえ。とにかく真物ほんもののキ的にいつぺん会つてみようぢやないか」
「ようがせう。然しねエ、旦那。間違つて入院させられねえやうに気をつけておくんなさいよ」
と、三人は精神病院へ上りこんだ。
待つほどに、ガチャン/\と奥の方からいくつも錠をあけたてする音が近づいてきて、やがて、和服の上に割烹着のやうな白いものをつけ、左の手にバイブルをぶらさげた看護人を先登せんとうにして疑惑の中の怪人物が現れてきた。
これを見ると深川オペラ劇場主人は胆をつぶして、突然うろ/\と鉄格子のはまつた窓を見廻したりしたのは、ならうことならそこを破つて逃げたい気持であつたのである。
和服の上に割烹着のやうな白いものをつけ左の手にバイブルをぶらさげた御人はまさしく木菟の先生であつた。
木菟の先生のうしろから静々と現れたのは、まぎれもなく樫の葉の御人なのである。
樫の葉の御人は感極つた面持であつた。六年前から涙がでないさうであるから、成程泣いてはゐないけれども、悄然としてむしろ甚だ悲しげである。例の如く若干首を傾けて貴族の如く一礼をなし、さて、顫ふるへを帯びた細い声で感動のために澱みながら、泌々しみじみと挨拶の言葉をのべた。
「先夜は大変失礼を致しました。悪印象をお与へしたのではないかと毎日心配してゐたのです。お待ちかねはしてゐましたが、ほんとに来て下さるかだうかと、それのみ案じつづけてゐたのでした。それゆゑ、荷物もつくつてゐない始末なのです。余りの感動のために感想すら浮かばない有様ですが、愈裟婆へ出ることが出来るのですね。それにしても、運送屋さんを二人まで連れて来ていただくほどの荷物がある筈はありませんのに」
と、樫の葉の御人は腹掛に印半纏しるしばんてんの暴力団を眺め、蒼ざめた顔に侘びしげな、けれどもまぶしげな笑ひを浮かべた。
十一
「虎八に鮫六」
「ヘエ」
まだ太陽がやうやく地平線の森の頭にかかつてゐる頃であつたが、深川オペラ劇場主人は、なにがし区なにがし町、つまり例の病院からひろびろと畑つづきのおでん屋で、もはやしたたか泡盛に酩酊に及んでゐるのである。
「なア。虎八に鮫六」
「ヘエ」
「キ的と正気の区別といふものがお前達に分るかな」
「はアてね」
「気違てえものは、泌々修養をつんだものだなア」
「さうかも知れないねエ」
「第一礼儀正しいやな。挨拶の口上なんてえものも、水際立つたものだな」
「全く驚いたものですねエ。だから見ねえ。看護人が挨拶しないのは、あれは気違と区別をつける為ですぜ」
「俺が十六の年だつたな。高等小学校を卒業して、日本橋のいわしやの小僧になつて始めて上京する時のことだ。俺の生れたのは東北の田舎で、うちは水呑百姓だつたな。おふくろが信玄袋を担いで停車場まで送つてくれて、三里もある畑の道をおふくろと二人で歩いたものだ。そのとき、おふくろがかう言つたぜ」
「オヤ。なるほどねエ」
「東京てえところは世智辛いところで、生馬の目を抜くてえところだから、人を見たら泥棒と思へと言ふのだな。泥棒てえものは見たところ愛嬌があつて、目から鼻へ抜けるやうに利巧で、弁説が巧みで、お世辞のいいものだと言つたな」
「田舎の人は律儀で口不調法だといふから、色々と東京を心配しますねエ」
「おふくろてえものはいゝものだなア。なア、運送屋の先生。然し、なんだぜ。流石におふくろほどの人でも、気違てえものが目から鼻へ抜けるほど利巧で、弁説が爽やかで、礼儀正しくて、修養をつんだものだとは知らなかつたんだな。こいつばかりはお釈迦様でも御存知ないや」
「まつたく世の中は宏大でがすねエ」
「虎八に鮫六」
「ヘエ」
「お前達おふくろが有るだらうな」
「ヘエ。たしかひとり、さういふものが有つたやうでしたねエ」
犬小屋のやうなおでん屋は、蒸気の釜のやうに暑い。けれども、裏戸と表戸を開け放しておくと、畑の風がまつすぐおでん屋を吹きぬけて、そのときは涼しいのである。
太陽が赤々と地平線へ落ちようとしてゐる。風の中の熱気がいくらか衰へて、畑の匂ひがだん/\激しくこもつてきた。
「一昔前のことだつたな。俺が三十五の年だ。東京で一人前に身を立てゝ、錦を飾るとまではいかねえが、くにへ帰つたと思ひねエ。そのときは何だぜ。東京中の名物といふ名物はみんなトランクへつめたものだつたな。お盆の頃だから、丁度夏の盛りだ。うちへつく。田舎はいつも変つてゐねえな。露天風呂でひと風呂あびる。夕めしだ。するてえと、おふくろが、うまい物は東京で食ひ飽いてることだらうからと言つて、小供の頃俺が大好物だつた雑炊をな、茄子、かぼちや、キャベツ、季節の野菜をごちや煮にしたものだ。これを拵へて祝つてくれたぜ。おふくろは有難いものだなア。大きな茶碗をとりあげて、さて一箸つけようとするてえと、思はず胸がつまつてきてポロリと涙が雑炊の上へこぼれてしまつたものだつたな」
「オヤ。しんみりとしたいい話ですねエ」
深川オペラ劇場主人は追憶のために胸がつまつてきたやうである。彼はフラ/\と立上つて裏戸をくぐつて、先づ玉蜀黍に小便をかけ、それからガサ/\と畑の中へ消えこんだ。
「モシ/\。旦那」
虎八と鮫六は慌ててあとを追ひかけたが、深川オペラ劇場主人は振向きもしない。畑の遥かまんなかへフラ/\と泳いで行つて、突然ばつたりひつくりかへつてポロ/\と涙を流した。
「虎八に鮫六」
「いけないねエ。旦那。百姓に見つかるてえと、鍬でもつて脳天どやされますがねエ」
「俺もくにへ帰つて百姓がしたくなつたぜ。東京は泌々世智辛くて厭だねえ、運送屋の先生。ポロリと涙が雑炊の上へこぼれたものだと思ひねえ。そこで俺は雑炊と一緒に泌々涙を食つたものだ。するてえと、だうだ。不思議にポロリと又ひとしづくこぼれたな」
「いけないねエ、旦那。センチになつちやア」
深川オペラ劇場主人は畑の枝豆の中へ顔を突つこんで泣いてゐたが、やがてそのままぐつすりと睡つてしまつた。
「こんなところで睡つてしまつちやいけないよ。ねエ、旦那」
虎八と鮫六は深川オペラ劇場主人の手を引つぱつたが、もはやグニャ/\と手応へもない。正体もなく熟睡に及んでゐるのである。
そこで虎八と鮫六はあきらめて、おでん屋へ戻つてきた。
旦那が熟睡したものだから、虎八と鮫六は泡盛をやめて、上酒の燗をつけさせた。特別大きな皿にしこたま冷やつこをつくらせ、一貫目もある氷を一本ドッカと入れて、こう、深川のおにいさんといふ者はかうして豆腐を食ふものだなどと威張りながら、上々の御機嫌で飲み直しはじめた。
とつぷり夜が落ちてゐた。
すでに武蔵野の田園は暗闇のはるか底へ沈み落ち、深川オペラ劇場主人の熟睡も暗闇のはるか底へ沈み落ちたが、虎八と鮫六は枝豆畑の旦那のことなどとつくの昔に忘れてゐる。黒髪のむすぼゝれたる思ひをばとけて寝た夜のなどと柄にない声で唄つて、おい、運送屋の先生、一献いきませうなどと差しつ差されつしてゐるのである。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
初出:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」
![]() | 103 バニー 結良 2018/12/11 07:18:59 ▼ | |
>>100 敵だ! | ||
![]() | 104 アイドル 茜 2018/12/11 07:19:10 ▼ | |
いっけなーい殺意殺意☆ ニート君がなんか死んでるけど、敵かどうかわかんないのね☆ 早速カオスな展開になりそうね☆ 次回「第一、死す」 君の心も監禁しちゃうぞ☆ | ||
![]() | 105 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:19:12 ▼ | |
私が死んだらアイツのせいだろう、多分。 知らんけど告発しとこう。 | ||
![]() | 106 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:19:12 ▼ | |
遺言のある村は初めてだから何かおもしろい事を書きたくなっちゃうね | ||
![]() | 107 情報学部 範男 2018/12/11 07:19:15 ▼ | |
おはよう 今日の楽しみ終了 おやすみ | ||
情報学部 範男 は 【山羊】 を手放します。
ファン 紅 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 108 外来 真子 2018/12/11 07:19:47 ▼ | |
死んでる人には基本セット能力系使えませんよね? (蘇生系統はともかく) 四天王は、まぁよくわかりませんが開始時に○○する対象は基本生存者ってことなんでしょう。 なので村か狼の2択ではあるでしょう | ||
![]() | 109 外来 真子 2018/12/11 07:20:07 ▼ | |
>>100 魔法使いおるん? | ||
![]() | 110 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:20:21 ▼ | |
遺言に禁則事項ですを入れると全部伏せられるという裏技がある | ||
![]() | 111 文学部 麻耶 2018/12/11 07:20:27 ▼ | |
魔法使いも禁止役職にしたはずなんだけど…… | ||
![]() | 112 番長 露瓶 2018/12/11 07:20:28 ▼ | |
四天王って自覚ないんだっけ(うろ覚え | ||
![]() | 113 囚人 要 2018/12/11 07:20:33 ▼ | |
最後に話しておくことはあるか? | ||
![]() | *2 外来 真子 2018/12/11 07:20:35 ▼ | |
おはようございます。 | ||
![]() | *3 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:20:41 ▼ | |
窓を、除ける役職がいるかもしれないが。 まあ各人が好きにしたいようにすればいいだろう。 | ||
![]() | 114 バニー 結良 2018/12/11 07:20:44 ▼ | |
自覚ないよ | ||
![]() | 115 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:20:46 ▼ | |
>>109 あれはあの人の口癖みたいなものなので気にしてはいけない | ||
![]() | 116 文学部 麻耶 2018/12/11 07:20:55 ▼ | |
>>110 なにそれつまりどういうことだってばよ | ||
![]() | -9 御曹司 満彦 2018/12/11 07:21:03 ▼ | |
ゴミ役職だああああああ( ´ཫ` ) | ||
![]() | 117 外来 真子 2018/12/11 07:21:25 ▼ | |
>>115 なるほど、ありがとうございます。 | ||
![]() | 118 バニー 結良 2018/12/11 07:21:26 ▼ | |
つまり遺言を隠せるってことか | ||
![]() | 119 看護師 小百合 2018/12/11 07:21:42 ▼ | |
>>102 なるほど、死ぬ前の段階ですか。 それなら処理順を確認しないといけない…? | ||
アイドル 岬は遺言を書きました。
「殺す
ああああ」
「殺す
ああああ」
![]() | 120 番長 露瓶 2018/12/11 07:21:54 ▼ | |
だよね、自覚ないんだよね これもうわかんねーな | ||
![]() | 121 文学部 麻耶 2018/12/11 07:22:02 ▼ | |
>>108 いや、敵対CPUの場合は「村の“敗北”」が条件だから狼よりタチ悪い | ||
![]() | 122 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:22:10 ▼ | |
黒幕を禁則事項ですだなんてとんでもない! | ||
![]() | 123 囚人 要 2018/12/11 07:22:14 ▼ | |
>>111 お前、そういう後出しは……。 | ||
![]() | 124 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:22:32 ▼ | |
あ、黒幕いるんだね。 | ||
![]() | 125 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:22:38 ▼ | |
私は四天王の可能性に賭けて黒幕様をお守りいたします アーメン | ||
![]() | 126 ファン 紅 2018/12/11 07:22:45 ▼ | |
あれ?禁止役職なんてあつたんだ。 (読んでなかった) | ||
![]() | 127 文学部 麻耶 2018/12/11 07:22:54 ▼ | |
>>123 開始前に言ってますー!! | ||
![]() | 128 看護師 小百合 2018/12/11 07:22:56 ▼ | |
>>121 狼勝利じゃなくて村の敗北なのですね。 妖魔でも恋人でも村が負ければOK? | ||
![]() | 129 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:22:57 ▼ | |
バニー結良を信用するな。 | ||
![]() | 130 バニー 結良 2018/12/11 07:23:02 ▼ | |
よく読んでないひとがいるのは仕方ないね | ||
![]() | 131 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:23:11 ▼ | |
遺言誤爆しました! | ||
![]() | 132 看護師 小百合 2018/12/11 07:23:31 ▼ | |
開始前にきちんと村建て様の発言を読まない不届き者がいるようですね | ||
![]() | 133 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:23:32 ▼ | |
黒幕って前に見たことある役職だなぁ | ||
![]() | 134 バニー 結良 2018/12/11 07:23:45 ▼ | |
>>129 信じて!🤗 | ||
![]() | 135 文学部 麻耶 2018/12/11 07:23:47 ▼ | |
>>128 その通り まあその他人外だからねえ……村陣営にセットした天邪鬼みたいなもんか | ||
![]() | 136 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:23:57 ▼ | |
遺言と発言窓似てるから窓間違えないでね〜 | ||
![]() | 137 外来 真子 2018/12/11 07:24:18 ▼ | |
![]() | 138 囚人 要 2018/12/11 07:24:18 ▼ | |
>>127 お前、そういう後出しは……。 | ||
![]() | -10 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:24:29 ▼ | |
だ…だれか…詳しく説明…して… この役のことよく分からないよ… | ||
![]() | 139 番長 露瓶 2018/12/11 07:24:30 ▼ | |
黒幕は四天王が分かるのか | ||
![]() | 140 看護師 小百合 2018/12/11 07:24:37 ▼ | |
IDが非公開にされてしまったので加速度的に中身を忘れていってしまいます。 | ||
![]() | 141 バニー 結良 2018/12/11 07:24:39 ▼ | |
吊らないで襲撃しないで占わないで | ||
![]() | 142 文学部 麻耶 2018/12/11 07:24:47 ▼ | |
なになに、初日から復讐みのある発言があるけど裏切者おるん? なぜわしに被弾しなかった???? | ||
![]() | 143 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:25:09 ▼ | |
>>137 コンピュータは開始時に自分の勝利条件が村を勝たせるか負けさせるかがランダムで決められる | ||
看護師 小百合 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 144 囚人 要 2018/12/11 07:25:20 ▼ | |
後出し村とはね。 | ||
![]() | 145 バニー 結良 2018/12/11 07:25:35 ▼ | |
自分で決めさせてほしいよね | ||
![]() | 146 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:25:42 ▼ | |
ID一覧は後で作ろう。 | ||
![]() | 147 囚人 要 2018/12/11 07:25:44 ▼ | |
後出し四天王勝利に賭けるしかない。 | ||
![]() | 148 ファン 紅 2018/12/11 07:25:49 ▼ | |
村建て発言なのか個人の発言なのかわかりづらいんだ…。 (言い訳) | ||
![]() | 149 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:25:50 ▼ | |
結良は間違いなく初回襲撃死でしょうね 生きてたら人外に違いありません | ||
![]() | 150 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:26:01 ▼ | |
![]() | -11 御曹司 満彦 2018/12/11 07:26:03 ▼ | |
私の殺人鬼はどこにいったんだろう 違う鬼になって帰ってきてしまった | ||
![]() | 151 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:26:23 ▼ | |
紅さん、気を付けてくださいね 今回は初回吊りで許してあげます | ||
![]() | /3 看護師 小百合 2018/12/11 07:26:28 ▼ | |
私はしばらくCOしませんので、表でまとめるなどする場合はご自由にどうぞ〜 | ||
![]() | 152 外来 真子 2018/12/11 07:26:41 ▼ | |
![]() | 153 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:26:44 ▼ | |
一応抽出して昨日の発言見たら中身が誰かわかる | ||
アイドル 岬は遺言を書きなおしました。
「銀狼うぃ〜」
「銀狼うぃ〜」
![]() | 154 文学部 麻耶 2018/12/11 07:26:55 ▼ | |
そこのバニーちゃんは果たして裏切者なのか、保護を逆手にとったアイドルおよびリア充なのか | ||
![]() | 155 バニー 結良 2018/12/11 07:27:06 ▼ | |
看護婦さんは嘘つき! アタシも覚えてる! | ||
![]() | 156 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:27:07 ▼ | |
クリスタの中身が超絶美人JKのあの人ってマ? | ||
ウェイトレス 南 は 不良 智哉 を襲撃します。
![]() | 157 囚人 要 2018/12/11 07:27:28 ▼ | |
遺言はシンプルにしておくか。 | ||
![]() | 158 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 07:27:29 ▼ | |
>>1:152か。 大声でもないね。。 | ||
![]() | 159 看護師 小百合 2018/12/11 07:27:34 ▼ | |
![]() | 160 番長 露瓶 2018/12/11 07:27:41 ▼ | |
幸福な村であることを祈ろう 幽霊よりパラノイア好きがコンピュータ様希望した線の方がありそうだし | ||
![]() | 161 バニー 結良 2018/12/11 07:27:44 ▼ | |
>>157 マンコ | ||
![]() | 162 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:27:50 ▼ | |
バニーさんに毎日投票しないと…!! | ||
![]() | 163 ファン 紅 2018/12/11 07:27:57 ▼ | |
>>151 まあまあ、落ち着くんだ。 | ||
![]() | 164 看護師 小百合 2018/12/11 07:28:10 ▼ | |
>>155 はーいお注射打っておきましょうね〜 | ||
![]() | 165 囚人 要 2018/12/11 07:28:40 ▼ | |
猫又CO。 | ||
![]() | 166 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:28:40 ▼ | |
![]() | 167 情報学部 範男 2018/12/11 07:28:40 ▼ | |
ね、これを読んでるということは私は殺されたということだな こ、そこに一緒に死んでる雑魚がいるだろ ま、そいつは狼だ た、あとは任せた C O | ||
アイドル 岬は遺言を書きなおしました。
「銀狼ぃ〜」
「銀狼ぃ〜」
![]() | 168 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:29:00 ▼ | |
ねなこまたCO | ||
![]() | 169 囚人 要 2018/12/11 07:29:02 ▼ | |
この人外カーニバルを生き残れるとは思わないな。 | ||
![]() | 170 情報学部 範男 2018/12/11 07:29:06 ▼ | |
ごめん遺言と間違えた | ||
![]() | -12 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:29:08 ▼ | |
吊りでしか倒す手段がないよー | ||
![]() | 171 看護師 小百合 2018/12/11 07:29:11 ▼ | |
>>167 雑ゥ! | ||
![]() | 172 文学部 麻耶 2018/12/11 07:29:14 ▼ | |
>>167 雑すぎて草 | ||
![]() | 173 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:29:26 ▼ | |
![]() | 174 文学部 麻耶 2018/12/11 07:29:49 ▼ | |
>>165 うんにゃ、ジョークかまことか | ||
![]() | 175 バニー 結良 2018/12/11 07:29:49 ▼ | |
ねなこまたおつ | ||
![]() | 176 囚人 要 2018/12/11 07:29:50 ▼ | |
>>167 猫又コンビだな。 | ||
![]() | 177 ファン 紅 2018/12/11 07:30:04 ▼ | |
前村で絶妙なタイミングのCOだった猫又騙りが2人も! | ||
![]() | 178 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:30:10 ▼ | |
あ、じゃあ私も猫又COですっ! | ||
![]() | 179 看護師 小百合 2018/12/11 07:30:18 ▼ | |
猫又CO、流行中ですか? | ||
![]() | 180 情報学部 範男 2018/12/11 07:30:19 ▼ | |
>>176 猫又同士頑張ろうぜ | ||
![]() | 181 外来 真子 2018/12/11 07:30:30 ▼ | |
![]() | 182 囚人 要 2018/12/11 07:30:46 ▼ | |
>>180 頑張っても滅びる気しかしないが、頑張るだけ頑張ろうか。 | ||
![]() | 183 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:30:57 ▼ | |
ひとつの役職が複数いることってあるの? | ||
![]() | 184 情報学部 範男 2018/12/11 07:31:04 ▼ | |
まぁ猫又ちゃうけど | ||
![]() | 185 バニー 結良 2018/12/11 07:31:15 ▼ | |
もちろんあります | ||
![]() | 186 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:31:16 ▼ | |
総統閣下CO | ||
![]() | 187 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:31:32 ▼ | |
猫仲間に入れて下さい〜〜! | ||
![]() | -13 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:31:39 ▼ | |
騙るなら蝙蝠陣営のどれかなのかな | ||
![]() | 188 バニー 結良 2018/12/11 07:31:42 ▼ | |
>>186 あっ | ||
![]() | 189 文学部 麻耶 2018/12/11 07:32:02 ▼ | |
べつに猫又じゃないんで吊ろうが噛もうがなんでもええよ 少なくとも自吊り容認するときは村に利があるときに限るけど | ||
![]() | 190 看護師 小百合 2018/12/11 07:32:06 ▼ | |
私も猫仲間に入れてください〜〜! | ||
![]() | 191 番長 露瓶 2018/12/11 07:32:07 ▼ | |
そういえばパン屋さんいないのか… プロローグで誰か言ってた気がするが | ||
![]() | 192 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:32:27 ▼ | |
この村に未来はありません 我々四天王は黒幕様を全力でお守りしましょう | ||
![]() | 193 外来 真子 2018/12/11 07:33:04 ▼ | |
みんな猫又、猫だらけの村。 | ||
![]() | 194 文学部 麻耶 2018/12/11 07:33:09 ▼ | |
>>183 普通にあるよ | ||
![]() | 195 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:33:12 ▼ | |
>>190 だめですー!! | ||
![]() | 196 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:33:22 ▼ | |
>>191 たぶん僕だよ。だれか他の人がなっちゃうとかわいそうかもだし、もう少し可愛い役職をお願いしたんだよ | ||
![]() | 197 文学部 麻耶 2018/12/11 07:33:33 ▼ | |
>>191 まだパン屋さんはパン焼いてる段階だからわからん | ||
![]() | 198 番長 露瓶 2018/12/11 07:34:15 ▼ | |
![]() | 199 看護師 小百合 2018/12/11 07:34:25 ▼ | |
>>195 この高いデザート注文するから! | ||
![]() | 200 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:34:26 ▼ | |
>>194 ふむふむあるんだー。ありがとう。 | ||
![]() | 201 番長 露瓶 2018/12/11 07:34:51 ▼ | |
![]() | 202 文学部 麻耶 2018/12/11 07:35:02 ▼ | |
あ、今更だけどわし夜勤なんでみんなのコアタイムに不在のこと多いっす 議論丸投げする気はないけど結果的にそうなりそうなんで申し訳 | ||
![]() | 203 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:35:04 ▼ | |
>>198 あっ、ごめんね…!!入れておけば良かった… | ||
![]() | 204 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:35:13 ▼ | |
総統閣下である私が禁則事項ですば猫又も全員死にます | ||
ファン 紅は遺言を書きました。
「はいからさんまとめはよ!」
「はいからさんまとめはよ!」
![]() | 205 文学部 麻耶 2018/12/11 07:35:44 ▼ | |
猫又とは全然関係ないんだけどうちの猫が可愛い | ||
![]() | 206 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:35:48 ▼ | |
麻耶さん、相変わらずコミットアンカーを譲る気はないのですね | ||
![]() | 207 番長 露瓶 2018/12/11 07:35:49 ▼ | |
>>203 (自分がやりたいとは思わないから)ええんやで | ||
![]() | 208 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:35:50 ▼ | |
>>199 くうう……血みどろメロンパフェデラックス、ご注文頂きましたー! | ||
![]() | 209 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:36:23 ▼ | |
僕は今分かるところで、今日と明後日の夜は不在だよ。 朝はこれたり来れなかったり | ||
![]() | 210 文学部 麻耶 2018/12/11 07:36:33 ▼ | |
というかアンカー云々より下手な時間に日付変更設定したらランダムまっしぐらやん…… | ||
![]() | 211 外来 真子 2018/12/11 07:36:46 ▼ | |
コミットはもうしてよいのです? | ||
ウェイトレス 南は、ニートの小指を切断し、パフェに添えた。 2018/12/11 07:36:48
![]() | 212 看護師 小百合 2018/12/11 07:37:06 ▼ | |
![]() | 213 ファン 紅 2018/12/11 07:37:06 ▼ | |
クリスタさんから強い殺意を感じるんだ…。 | ||
![]() | 214 バニー 結良 2018/12/11 07:37:18 ▼ | |
一日一回10分で出来る健康的なゲームです | ||
![]() | 215 絵本作家 塗絵 2018/12/11 07:37:49 ▼ | |
おはようだよ | ||
![]() | 216 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:37:53 ▼ | |
明日、朝一で紅さんの奴隷COするか紅さんに黒を出すか悩んでいます いえ、私怨ではありませんが | ||
![]() | 217 番長 露瓶 2018/12/11 07:37:55 ▼ | |
毎日おはようだけ言って適当に投票するゲームだぞ | ||
![]() | 218 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:37:59 ▼ | |
>>207 わかったよ〜。良かった… | ||
![]() | 219 看護師 小百合 2018/12/11 07:38:07 ▼ | |
コミットはしてもいいと思いますよ〜 明日からは投票=コミットなので気をつけましょうね。 無発言投票は死。 | ||
![]() | 220 バニー 結良 2018/12/11 07:38:08 ▼ | |
>>213 閣下、ここは先制攻撃が肝要かと | ||
![]() | -14 外来 真子 2018/12/11 07:38:33 ▼ | |
仁狼だけどこれ素狂人しかわからないパターンなんじゃないか? もしくは狂人系いない? | ||
![]() | 221 文学部 麻耶 2018/12/11 07:38:34 ▼ | |
>>211 なんかもうしてる人いるし初日だしええで まあ問題はまだ全員が起きてない中で早々にコミットするのは初日セットできる役職じゃないって言ってるに近いもんがあるけど | ||
![]() | 222 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:38:46 ▼ | |
総統閣下、相当カッカしてんな | ||
![]() | *4 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:38:48 ▼ | |
名前を出さなければいいか。お互い明日から敵かもしれんが、よろしくな。 | ||
![]() | 223 バニー 結良 2018/12/11 07:39:00 ▼ | |
いつもの(投票) | ||
![]() | 224 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:39:30 ▼ | |
>>222 ふふっ | ||
![]() | 225 文学部 麻耶 2018/12/11 07:39:35 ▼ | |
普通にお腹すいた | ||
![]() | 226 令嬢 御影 2018/12/11 07:39:44 ▼ | |
ねこ | ||
令嬢 御影 が時間を進めるを選択しました。
ウェイトレス 南は遺言を書きました。
「皆さんがこのメッセージを読んでいるということは、私はこの世には居ないということでしょう。」
「皆さんがこのメッセージを読んでいるということは、私はこの世には居ないということでしょう。」
![]() | 227 看護師 小百合 2018/12/11 07:40:11 ▼ | |
>>221 初日セットできる役職だったとしてもこの村に乗り込んでいる連中の多くはすぐにコミットすると思いますよ。 | ||
![]() | 228 外来 真子 2018/12/11 07:40:17 ▼ | |
外来 真子 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 229 バニー 結良 2018/12/11 07:40:43 ▼ | |
かまへんかまへん即コミすっぞ〜 | ||
![]() | 230 文学部 麻耶 2018/12/11 07:40:50 ▼ | |
そういやこの村凸あったんだった……(村主) うーん、まさかやる人いないと思うけど意図的な凸はやめーよ? | ||
![]() | 231 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:41:11 ▼ | |
今日からパパの人、最初は居たような気がするんですが、蹴られちゃいましたかね? | ||
![]() | 232 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:41:26 ▼ | |
流石のならず者も意図的凸にはドン引き | ||
![]() | *5 外来 真子 2018/12/11 07:41:40 ▼ | |
よろしくお願いします。 能力も伏せた方がよい感じですかね。 | ||
![]() | 233 バニー 結良 2018/12/11 07:41:57 ▼ | |
某クリスタさん、他のひとを長時間拘束して凸させるような技はやめてくださいね | ||
![]() | 234 看護師 小百合 2018/12/11 07:42:25 ▼ | |
意図的凸はヤクザより恐ろしい連中が徹底的に殴りにくるのでやめたほうが懸命だと思いますね…。 | ||
![]() | 235 バニー 結良 2018/12/11 07:42:44 ▼ | |
誰とは言いませんが | ||
![]() | 236 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:42:56 ▼ | |
凸然死はもう見たくないなぁ… | ||
![]() | 237 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:43:04 ▼ | |
7時更新だし、4時まで拘束しても3時間あるからええやろ | ||
![]() | 238 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:43:15 ▼ | |
クリスタさん、交際相手を服を着せないで夜遊びに連れ回すのが趣味とか! | ||
看護師 小百合は、ウェイトレス 南特性の指パフェを食べた。美味しい。 2018/12/11 07:43:26
![]() | 239 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:43:35 ▼ | |
服を着る意味がわかりません 何故脱がないのですか? | ||
![]() | 240 看護師 小百合 2018/12/11 07:44:01 ▼ | |
![]() | *6 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:44:18 ▼ | |
今日は選択肢もないし前述のとおり明日から敵かもしれないので、個人の裁量によるとしか。 | ||
![]() | 241 バニー 結良 2018/12/11 07:44:19 ▼ | |
ひとは服を着て生まれてくるわけではありませんからね | ||
![]() | 242 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:44:41 ▼ | |
>>238 風邪ひいちゃうよ?服を着せてあげて… | ||
![]() | 243 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:44:46 ▼ | |
騒いだら一発殴ればいいですからね ちょろいですよ | ||
![]() | 244 文学部 麻耶 2018/12/11 07:45:01 ▼ | |
>>232 いやー裏切者にはやっぱ自力で死亡まで持ってって欲しいじゃん?(フリーク) とまあ冗談はそこらへんにして、未練者なり骸狼なりがわざと凸ったらその恩恵で勝てたとしても後味悪いじゃん | ||
![]() | -15 番長 露瓶 2018/12/11 07:45:17 ▼ | |
本当に総統閣下いるなら私これ村じゃねーな まぁ分からんし適当でええやろ | ||
![]() | 245 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:45:41 ▼ | |
総統閣下の私が凸すると、村側は全員死にます | ||
![]() | 246 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:45:57 ▼ | |
村側は私の機嫌を損ねないように | ||
教育学部 伊澄は遺言を書きなおしました。
「本物の黒幕はバニー 結良 だよ…ぐはっ…
あ、あと。ココアに塩入れたら美味しいよね」
「本物の黒幕はバニー 結良 だよ…ぐはっ…
あ、あと。ココアに塩入れたら美味しいよね」
![]() | *7 外来 真子 2018/12/11 07:46:26 ▼ | |
わかりました。 一先ず保留にしときます。 | ||
![]() | 247 看護師 小百合 2018/12/11 07:46:29 ▼ | |
凸はどんな役職だったとしても許されない。死んでからが本領の役職でもね。 | ||
![]() | 248 文学部 麻耶 2018/12/11 07:47:43 ▼ | |
マジで閣下が自分の機嫌で村ぶち壊したら無心で通報するぞ…… | ||
![]() | 249 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:47:48 ▼ | |
大総統閣下ってすごい役職なんだね | ||
![]() | 250 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:48:28 ▼ | |
お腹は殴らないで欲しいです……。 | ||
![]() | 251 御曹司 満彦 2018/12/11 07:48:32 ▼ | |
外寒すぎこみっとこみっと〜 | ||
![]() | -16 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:48:35 ▼ | |
文学部 麻耶▽ < 34 >857/891 情報学部 範男▽ < 5 >886/891 絵本作家 塗絵▽ < 1 >890/891 アイドル 茜▽ < 1 >890/891 | ||
御曹司 満彦 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 252 文学部 麻耶 2018/12/11 07:48:58 ▼ | |
そういえば第1回巨大長期は早々に人外が諦めて集団自殺してたねえ…… | ||
![]() | 253 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:49:45 ▼ | |
人から見えるところを殴るわけないでしょう? | ||
![]() | 254 番長 露瓶 2018/12/11 07:49:53 ▼ | |
第3回は奇跡のバランスだったと聞いた気がする | ||
![]() | 255 バニー 結良 2018/12/11 07:49:57 ▼ | |
顔もやめてほしいの | ||
![]() | 256 番長 露瓶 2018/12/11 07:50:07 ▼ | |
なお村側は考慮しない | ||
![]() | 257 御曹司 満彦 2018/12/11 07:50:19 ▼ | |
黒幕久しぶりに見た まぁどこかで多分落ちてくれるでしょう(楽観) | ||
![]() | 258 バニー 結良 2018/12/11 07:50:38 ▼ | |
ここでいう第一回はなんか年末長期とかその辺の気がする | ||
![]() | -17 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:50:51 ▼ | |
>>257 やーだー 死にたくないよ〜 | ||
![]() | 259 文学部 麻耶 2018/12/11 07:51:12 ▼ | |
つーかこんな実質柱みたいな役職より人外やりたかった それこそ裏切者になれたら最高だったんだろなあ | ||
![]() | 260 御曹司 満彦 2018/12/11 07:51:21 ▼ | |
ニート君がニートしている。 | ||
![]() | 261 警察官 晋護 2018/12/11 07:51:26 ▼ | |
おはようございます >>1:273 ありがとうございます | ||
![]() | 262 番長 露瓶 2018/12/11 07:51:33 ▼ | |
大人数村が恒例行事なのか! | ||
![]() | 263 文学部 麻耶 2018/12/11 07:51:57 ▼ | |
>>253 すげー修道女とは思えない発言をしている…… | ||
![]() | 264 教育学部 伊澄 2018/12/11 07:52:17 ▼ | |
お腹すいたけど寒くて布団から出られないよ | ||
![]() | 265 番長 露瓶 2018/12/11 07:52:36 ▼ | |
この修道女、板割って鳥とか虎とか出してきそう | ||
![]() | 266 バニー 結良 2018/12/11 07:52:41 ▼ | |
こんなクソ役職だらけの国少人数でやってもいまいち盛り上がらないからね、仕方ないね | ||
![]() | 267 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:53:00 ▼ | |
![]() | 268 文学部 麻耶 2018/12/11 07:53:05 ▼ | |
年末長期が年末調整に見えたからきっとわたし疲れてる 2年前の夏にやったやつだねえ | ||
![]() | 269 ウェイトレス 南 2018/12/11 07:53:14 ▼ | |
クリスタさん、生き生きしてます。 今度こそ、勝ちに導いてくれる気がしますー! | ||
![]() | 270 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:53:16 ▼ | |
ちょっとパチンコ行ってくるから金借りてくるか | ||
![]() | 271 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:53:38 ▼ | |
独り言と間違えました | ||
![]() | 272 警察官 晋護 2018/12/11 07:53:41 ▼ | |
そして窓が見えないヨ 黒幕もいるらしいヨ これはきっと幻覚だ、 そうに違いない(白目) | ||
![]() | 273 文学部 麻耶 2018/12/11 07:54:16 ▼ | |
そろそろコロシアムの時間だわ つーか1時間たらずでここまで進むとははやいな | ||
![]() | 274 番長 露瓶 2018/12/11 07:54:22 ▼ | |
少人数で初日犠牲者が狼に矢を刺して一瞬で終わったことがあった… | ||
![]() | 275 警察官 晋護 2018/12/11 07:54:31 ▼ | |
>>270 善良とは...?? | ||
![]() | 276 警察官 晋護 2018/12/11 07:55:02 ▼ | |
そ れ は ひ ど い | ||
![]() | 277 文学部 麻耶 2018/12/11 07:55:06 ▼ | |
>>274 草しか生えない | ||
![]() | 278 文学部 麻耶 2018/12/11 07:56:13 ▼ | |
短期だけど、溺愛やったらドッペルに当てて即死&ダミーから復讐食らって負け確ってことがあったな | ||
![]() | 279 文学部 麻耶 2018/12/11 07:56:23 ▼ | |
コロシアムやってきまー | ||
![]() | 280 令嬢 御影 2018/12/11 07:56:50 ▼ | |
朝に飲むもののベストチョイスがわからん コーヒーって気持ち悪くなるんだよね | ||
![]() | -18 警察官 晋護 2018/12/11 07:57:22 ▼ | |
⬅黒幕希望した犯人 | ||
![]() | 281 バニー 結良 2018/12/11 07:57:23 ▼ | |
>>274 クソゲー!クソゲー! | ||
![]() | 282 バニー 結良 2018/12/11 07:57:47 ▼ | |
>>280 モンスター(赤) | ||
ファン 紅 は 不良 智哉 を襲撃します。
![]() | 283 令嬢 御影 2018/12/11 07:58:09 ▼ | |
窓がある!と思ったらこれみんなついてるのか(調べた) | ||
![]() | *8 ファン 紅 2018/12/11 07:58:49 ▼ | |
クリスタさんを噛むしかない(恐怖心) | ||
![]() | 284 修道女 クリスタ 2018/12/11 07:58:51 ▼ | |
>>280 コーラを朝から飲むと体に良いそうです | ||
警察官 晋護は遺言を書きました。
「罠師co
一日目」
「罠師co
一日目」
![]() | *9 ファン 紅 2018/12/11 08:00:02 ▼ | |
ダミーしか噛めないやんけ! | ||
![]() | 285 教育学部 伊澄 2018/12/11 08:00:11 ▼ | |
>>280 お茶がおいしいよ | ||
![]() | 286 ウェイトレス 南 2018/12/11 08:00:17 ▼ | |
>>280 あったかーい、黒豆茶はいかがですか〜〜? | ||
![]() | 287 警察官 晋護 2018/12/11 08:01:58 ▼ | |
というわけでコミットしておきまふ | ||
![]() | 288 囚人 要 2018/12/11 08:02:10 ▼ | |
>>280 ピルクルとレシチンを一粒。 | ||
警察官 晋護 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 289 教育学部 伊澄 2018/12/11 08:02:19 ▼ | |
そろそろ学校に行く用意しないと 来れたら夜、来れなかったらまた明日ね | ||
![]() | 290 囚人 要 2018/12/11 08:02:30 ▼ | |
今日は寒いからアイスでも食べるか。 | ||
![]() | 291 囚人 要 2018/12/11 08:02:38 ▼ | |
超寒い。 | ||
囚人 要 は 凍えた。網走の冬は、寒い。 2018/12/11 08:02:57
![]() | 292 ウェイトレス 南 2018/12/11 08:04:45 ▼ | |
アイス!体の芯まで、冷えちゃいますよー。 あったかいメニューをお作りしますね! 今日はほんと寒いー! | ||
![]() | 293 看護師 小百合 2018/12/11 08:04:45 ▼ | |
ウェイトレス 南は、焼きおにぎり3個セットとお茶を、網走監獄へ送った。 2018/12/11 08:05:16
![]() | *10 ファン 紅 2018/12/11 08:13:22 ▼ | |
ふらふらと…みたいなシスメを誰も話題にしないな…とか思ってたら狼のみ表示されるやつなんだね。あぶなっ! | ||
![]() | *11 ウェイトレス 南 2018/12/11 08:16:38 ▼ | |
色的にそんな予感がしたので、黙っといた。 | ||
![]() | 294 赤子 羽風 2018/12/11 08:16:38 ▼ | |
ばぶー | ||
看護師 小百合は遺言を書きなおしました。
「現時点では無能です。(2日目)
4日目以降、毛が生えた程度に能力発揮できる村側でした。
あと、キャバ嬢さんと絆つながってました。(一緒に死んでると思う)
多分私が希望してた共命者効果だと思います。※緑窓で直接は聞いてない。
12月11日8時15分時点では、私とキャバ嬢さん以外緑窓は喋っていません。」
「現時点では無能です。(2日目)
4日目以降、毛が生えた程度に能力発揮できる村側でした。
あと、キャバ嬢さんと絆つながってました。(一緒に死んでると思う)
多分私が希望してた共命者効果だと思います。※緑窓で直接は聞いてない。
12月11日8時15分時点では、私とキャバ嬢さん以外緑窓は喋っていません。」
![]() | -19 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:18:22 ▼ | |
総統閣下(総)【村人陣営】 村人達の中心的な存在です。 開始時に村人陣営にのみ村にいる総統閣下が誰なのかメッセージが表示されます。旅人などの陣営が移り変わる役職には表示されません。 総統閣下が死亡すると村人陣営全てが後追いしてしまいます。(総統閣下がサブ役職で【人外変化】していた場合は後追いは発生しません) 開始時メッセージ この村に 総統閣下 である、大泉 ガガガ 閣下 がご来臨されました。気を引き締めましょう。 死亡時メッセージ 大泉 ガガガ 閣下逝去! | ||
![]() | 295 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:19:04 ▼ | |
総統閣下おらんやん。 | ||
囚人 要 は 泣きながら焼きおにぎりを食べた。 2018/12/11 08:20:25
![]() | 296 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:20:53 ▼ | |
村側とバレてしまつた。 | ||
![]() | 297 文学部 麻耶 2018/12/11 08:21:10 ▼ | |
負けたあああああ | ||
![]() | -20 番長 露瓶 2018/12/11 08:21:12 ▼ | |
覚醒者(覚)【村人陣営】[占:○][霊:○][数:○][狼:×][妖:×][呪:×] 襲撃されると村人陣営役職の何れかに変化する村人です。 覚醒時は死亡しません。護衛されていた場合は覚醒しません。 覚醒されるまでは自分を村人だと思い込んでいて村人と表示されています。 この役職が編成に含まれると強制的に墓下公開オフ、ID公開オフ、票数公開オフになります。 | ||
![]() | /4 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 08:21:23 ▼ | |
これ私から刺してるんですね。 ご迷惑おかけしたらすみません。 女子会窓だよ キャッキャウフフ | ||
![]() | 298 文学部 麻耶 2018/12/11 08:21:58 ▼ | |
![]() | -21 番長 露瓶 2018/12/11 08:22:01 ▼ | |
潜在者(潜)【村人陣営】[占:○][霊:○][数:○][狼:×][妖:×][呪:×] 襲撃が成功して噛まれると人狼か狂人になります。 襲撃された時点で人狼の数が1人の時は人狼に、2人以上の時は狂人になります。 人狼/狂人になった時は死亡しません。護衛されていた場合は人狼/狂人になりません。 覚醒前はただの村人で村側ですが、襲撃された後は人狼側になります。 | ||
![]() | 299 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:22:04 ▼ | |
8時コロシアム? | ||
![]() | 300 文学部 麻耶 2018/12/11 08:22:52 ▼ | |
です A帯に落ちてしまった | ||
![]() | -22 番長 露瓶 2018/12/11 08:22:59 ▼ | |
適格者(適)【村人陣営】 あなたはまだ目覚めていない何らかの力を持った適格者です。 あなたは自分のことをただの村人のように思っていますが、実は特別な力を持っています。 しかしまだ眠っているのか目覚めていません。 もし不思議な力を持った占い師によって占われた時、それが切欠となって目覚めることになるでしょう。 本来の力に目覚めたとき、あなたは村人役職の何れかに変化します。 真実を知ったときあなたは本来の資格を得ることになるでしょう。 ※この役職が編成に含まれると強制的に墓下公開オフ、ID公開オフ、票数公開オフになります。 | ||
![]() | 301 学生 比奈 2018/12/11 08:23:59 ▼ | |
おはよう。 | ||
![]() | 302 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:24:12 ▼ | |
S維持は大変やんね。 | ||
![]() | 303 学生 比奈 2018/12/11 08:24:14 ▼ | |
だれだよこんな役職入れたの。 | ||
![]() | 304 学生 比奈 2018/12/11 08:24:21 ▼ | |
ばーか。 | ||
![]() | -23 番長 露瓶 2018/12/11 08:24:27 ▼ | |
申し子(申)【村人陣営】 あなたは神仏への祈願より授かった申し子。 しかし生まれも知らされずに育てられたあなたは自身のことをただの村人だと思っています。 しかしもしあなたが命を落としたとき、不思議なことに一度だけ蘇ります。 そのとき初めて自分が何者であったのか判明します。 あなたの迷いが晴れたとき、あなたは村人役職の何れかに変化するでしょう。 ※この役職が編成に含まれると強制的に墓下公開オフ、ID公開オフ、票数公開オフになります。 | ||
![]() | -24 番長 露瓶 2018/12/11 08:25:06 ▼ | |
特異点(特)【村人陣営】 あなたは特異点。 あなたはただの村人のように思えますが実は特殊な位置に立っている存在です。 変化は突然やってきます。ある日の朝、あなたは本来の役職に変化します。 それはいつになるかわかりません。ただ日にちが経過するほど確率が高くなっていきます。 変化する役職は村人陣営の者に限ります。変化されるまであなたは自分のことを単なる村人だと思い込んでいるでしょう。 村の命運はあなたの本来の姿によって決定されるかもしれません。 ※この役職が編成に含まれると強制的に墓下公開オフ、ID公開オフ、票数公開オフになります。 | ||
![]() | 305 バニー 結良 2018/12/11 08:25:37 ▼ | |
クソ役職ばんざーい | ||
![]() | 306 文学部 麻耶 2018/12/11 08:25:58 ▼ | |
ギルドが全体的に強くなったぶん、マッチングする相手も強くなって結果的にS帯にいる期間が短くなってしまうという罠 グラコロまでに昇格するんだ…… | ||
![]() | 307 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:25:58 ▼ | |
私は村側URを希望しましたよ。 | ||
![]() | -25 番長 露瓶 2018/12/11 08:26:05 ▼ | |
ナイトメア(ナ)【妖魔陣営】 あなたは村人だと思い込んでいる妖魔です。 仲間の妖魔からの念話も聞こえず、村人だと信じたくともあなたがいる限り村の平和は訪れません。 占い/襲撃によって真実を知った時、あなたの悪夢の終わりと始まりが告げられます。 | ||
![]() | 308 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:26:19 ▼ | |
ヴィクトリアが人外COしたな | ||
![]() | 309 文学部 麻耶 2018/12/11 08:26:32 ▼ | |
そういえば今マックでグラコロやってるけどあれって美味いん? 食べたことない | ||
![]() | -26 番長 露瓶 2018/12/11 08:26:38 ▼ | |
忌み子(忌)【村人陣営】 占われると占い師を殺してしまう村人です。 自分からではただの村人として表記されるので自覚はありません。 | ||
![]() | 310 バニー 結良 2018/12/11 08:26:50 ▼ | |
ウルトラ狼男 | ||
![]() | 311 赤子 羽風 2018/12/11 08:26:52 ▼ | |
総統閣下分からん人おるって本当? | ||
![]() | -27 番長 露瓶 2018/12/11 08:27:06 ▼ | |
人狼猫(9)【人狼陣営】 あなたは村人だと思い込んでいる人狼です。自分が村人だと思っていても占い/霊能では人狼と見なされるでしょう。 仲間の人狼に囁かれても恐ろしげな遠吠えとしか聞こえないあなたは襲撃にも自分の意思で参加することはありません。 しかしそんなあなたでも歴とした人狼。あなたがいる限り村の平和は訪れません。 占いによって真実を見抜かれた時、もしくは人狼が人狼猫のみになった時、あなたは人狼の本能に目覚め村人を脅かす存在になります。 | ||
![]() | 312 バニー 結良 2018/12/11 08:27:19 ▼ | |
おらんやろ〜 | ||
![]() | 313 学生 比奈 2018/12/11 08:27:26 ▼ | |
欧司さんが死んでいるのか。 ニートが、死んでいる.....。 | ||
![]() | 314 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:27:40 ▼ | |
親近感を覚えたので摩耶さんを信じることにしよう。 | ||
![]() | -28 番長 露瓶 2018/12/11 08:27:51 ▼ | |
村人だと思い込んでいる役職多すぎやろ草 | ||
![]() | 315 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:27:54 ▼ | |
総統閣下は私です 総統閣下がいないとか言い出すヴィクトリアは人外に違いありません | ||
![]() | 316 学生 比奈 2018/12/11 08:27:54 ▼ | |
これは大変示唆に富んでいると思う。 気をつけろよ、ニート。 | ||
![]() | 317 文学部 麻耶 2018/12/11 08:27:55 ▼ | |
>>313 なぜかカフカの変身を思い出した | ||
![]() | /5 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 08:28:27 ▼ | |
![]() | 318 赤子 羽風 2018/12/11 08:28:31 ▼ | |
![]() | 319 文学部 麻耶 2018/12/11 08:28:34 ▼ | |
>>314 まだ不信任案提出されるようなこともほとんど言ってないと思うけどね | ||
![]() | 320 バニー 結良 2018/12/11 08:28:42 ▼ | |
おいしいよ 今日食べに行く | ||
![]() | 321 学生 比奈 2018/12/11 08:28:46 ▼ | |
>>222 っておいそれ99人村の私のやつぅ! | ||
![]() | 322 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:28:48 ▼ | |
悲しいことに村側なのよね。。 | ||
![]() | 323 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:28:58 ▼ | |
村側の皆さんは、総統閣下の私の口座に1万ずつ振り込んでください | ||
![]() | 324 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:29:20 ▼ | |
振り込んでいない人は人外とみなします | ||
![]() | 325 文学部 麻耶 2018/12/11 08:29:32 ▼ | |
>>318 うぇ、マカロニ入ってんのか……(マカロニサラダ苦手) どうせなら濃にしてみたいけど、400円……悩むな | ||
![]() | 326 番長 露瓶 2018/12/11 08:29:55 ▼ | |
グラコロ食いたくなった | ||
![]() | 327 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:30:12 ▼ | |
![]() | 328 文学部 麻耶 2018/12/11 08:30:18 ▼ | |
普通にお腹すいた | ||
![]() | 329 バニー 結良 2018/12/11 08:30:21 ▼ | |
私の分はもう牛男爵に預けましたので | ||
![]() | 330 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:30:30 ▼ | |
総統閣下いると村人表記だけど実は違う系が気づくことができるんかな。 | ||
![]() | 331 文学部 麻耶 2018/12/11 08:30:40 ▼ | |
この発言2回目だわ | ||
![]() | 332 バニー 結良 2018/12/11 08:31:06 ▼ | |
そら人外なら表示されないからな | ||
赤子 羽風 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 333 文学部 麻耶 2018/12/11 08:31:21 ▼ | |
>>330 前にありましたね〜人狼猫がそれで自覚したの | ||
![]() | -29 番長 露瓶 2018/12/11 08:31:31 ▼ | |
だいたい襲撃か占いで目覚めるって認識で良さそうだな | ||
学生 比奈 が時間を進めるを選択しました。
![]() | /6 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 08:31:53 ▼ | |
総統閣下(総)【村人陣営】 村人達の中心的な存在です。 開始時に村人陣営にのみ村にいる総統閣下が誰なのかメッセージが表示されます。旅人などの陣営が移り変わる役職には表示されません。 総統閣下が死亡すると村人陣営全てが後追いしてしまいます。(総統閣下がサブ役職で【人外変化】していた場合は後追いは発生しません) | ||
![]() | 334 文学部 麻耶 2018/12/11 08:32:00 ▼ | |
腹減ったんだ 腹減ったんだ | ||
![]() | /7 キャバ嬢 瑠樺 2018/12/11 08:32:13 ▼ | |
総統閣下見えない。 私村側のはずなのに。 | ||
![]() | 335 バニー 結良 2018/12/11 08:33:14 ▼ | |
ローソンはいつでもダレでもウェルカム | ||
![]() | 336 赤子 羽風 2018/12/11 08:33:16 ▼ | |
この歳で遺言を書くことになるとはな | ||
![]() | -30 番長 露瓶 2018/12/11 08:33:49 ▼ | |
赤子 羽風は遺言を書きました。
「もう一回遊べるドン(ばぶう)」
「もう一回遊べるドン(ばぶう)」
![]() | 337 修道女 クリスタ 2018/12/11 08:34:28 ▼ | |
生まれて4秒で終活 | ||
![]() | -31 番長 露瓶 2018/12/11 08:35:27 ▼ | |
>>333 いや、合図だとしたらこっちか | ||
![]() | 338 文学部 麻耶 2018/12/11 08:36:07 ▼ | |
ローソン絶妙に遠い | ||
![]() | 339 赤子 羽風 2018/12/11 08:36:07 ▼ | |
まず字を習うか | ||
![]() | -32 番長 露瓶 2018/12/11 08:36:10 ▼ | |
とりあえずそう考えて動くか | ||
![]() | 340 文学部 麻耶 2018/12/11 08:36:20 ▼ | |
![]() | 341 番長 露瓶 2018/12/11 08:38:26 ▼ | |
もう漢字使って話してるんだよなぁ | ||
![]() | 342 赤子 羽風 2018/12/11 08:39:28 ▼ | |
話せることと書けることは別だからな | ||
![]() | 343 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 08:40:18 ▼ | |
おはよう | ||
![]() | 344 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:41:24 ▼ | |
![]() | 345 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 08:43:41 ▼ | |
とりあえず黒幕と死んでる奴だけ確認したぜよ | ||
悪戯好き ダーヴィドは遺言を書きました。
「ダーヴィド」
「ダーヴィド」
悪戯好き ダーヴィド が時間を進めるを選択しました。
![]() | 346 文学部 麻耶 2018/12/11 08:45:46 ▼ | |
>>344 13人外よ | ||
![]() | -33 外来 真子 2018/12/11 08:46:19 ▼ | |
ダミーの人の発言数減ってないけど、これ仕様? また指導者? | ||
![]() | -34 番長 露瓶 2018/12/11 08:50:13 ▼ | |
さて、何か騙らなきゃいけないか そのうちFOの流れになるかもしれないし | ||
![]() | 347 文学部 麻耶 2018/12/11 08:51:07 ▼ | |
だいぶ勢いが弱まったな | ||
![]() | -35 番長 露瓶 2018/12/11 08:52:15 ▼ | |
狼男CO | ||
![]() | -36 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 08:53:07 ▼ | |
幽霊かCPがいるからそこから情報を貰って蘇生するやつを決めますか | ||
![]() | 348 文学部 麻耶 2018/12/11 08:54:22 ▼ | |
今気づいたけど今日A帯降格てことは予選までに昇格すんの無理じゃん うわ悔しい | ||
![]() | -37 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:56:39 ▼ | |
文学部 麻耶▽ID: akakanamin 情報学部 範男▽ID: すづき 宇宙飛行士 星児▽ID: ドラロ ツンデレ 弥生▽ID: ほうほう 学生 昌義▽ID: イヅル 生命維持装置 続▽ID: zeno アイドル 岬▽ID: mythree ニット帽 光▽ID: Aki 看護師 小百合▽ID: 紗紋 赤子 羽風▽ID: kyowa ウェイター 東▽ID: ann 悪戯好き ダーヴィド▽ID: drnm ウェイトレス 南▽ID: andante 外来 真子▽ID: 鳥足 修道女 クリスタ▽ID: 一真 お忍び ヴィクトリア▽ID: satane バニー 結良▽ID: sazanami 囚人 要▽ID: 伯爵 絵本作家 塗絵▽ID: 翔鶴嫁 番長 露瓶▽ID: ktzw 小学生 朝陽▽ID: からけ 研修医 忍▽ID: トマソン アイドル 茜▽ID: 味噌ロモン ニート 欧司▽ID: Owl カメラマン つくね▽ID: BOU 教育学部 伊澄▽ID: 晋助 おしゃま 優奈▽ID: yukiutuno 御曹司 満彦▽ID: とも ファン 紅▽ID: TUKIN キャバ嬢 瑠樺▽ID: PUSAN 令嬢 御影▽ID: 有理 学生 比奈▽ID: しらたま団子 警察官 晋護▽ID: sasa1086 | ||
![]() | 349 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 08:58:40 ▼ | |
>>346 感謝。 | ||
番長 露瓶は遺言を書きました。
「希望役職:ゾンビランドSAGA」
「希望役職:ゾンビランドSAGA」
番長 露瓶は遺言を書きなおしました。
「番長の希望役職:ゾンビランドSAGA」
「番長の希望役職:ゾンビランドSAGA」
![]() | 350 文学部 麻耶 2018/12/11 09:08:41 ▼ | |
寒い | ||
番長 露瓶は遺言を処分しました。
![]() | 351 ウェイター 東 2018/12/11 09:13:49 ▼ | |
まいどー | ||
絵本作家 塗絵は遺言を書きました。
「妖狼希望にはしておいたけど
どうかな 通ってる?」
「妖狼希望にはしておいたけど
どうかな 通ってる?」
![]() | 352 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:21:56 ▼ | |
ID一覧作れたが、需要はあるのだろうか。 | ||
![]() | -38 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:25:00 ▼ | |
13人外。 狼6固定、黒幕。 残り人外は6。 狂人2、妖魔2、恋復讐等2くらいなのかな。 | ||
![]() | 353 ウェイター 東 2018/12/11 09:26:02 ▼ | |
今さらながら、このねじ天という人狼システムとは、めっちゃ相性悪い事を再確認。 ありがとうねじ天。わいの残る人生は黒幕さまに捧げるわ。 | ||
![]() | 354 バニー 結良 2018/12/11 09:27:18 ▼ | |
また誤爆したんすか | ||
![]() | -39 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:27:53 ▼ | |
総統閣下を騙っても村側にバレる。 襲撃避けにはなるか? | ||
![]() | 355 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:28:53 ▼ | |
。。。 | ||
![]() | 356 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 09:29:01 ▼ | |
明日の吊り枠になりたいんですか? | ||
![]() | 357 ウェイター 東 2018/12/11 09:31:45 ▼ | |
ウェイター 東 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 358 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:34:20 ▼ | |
文学部 麻耶▽ID: akakanamin 情報学部 範男▽ID: すづき 宇宙飛行士 星児▽ID: ドラロ ツンデレ 弥生▽ID: ほうほう 学生 昌義▽ID: イヅル 生命維持装置 続▽ID: zeno アイドル 岬▽ID: mythree ニット帽 光▽ID: Aki 看護師 小百合▽ID: 紗紋 赤子 羽風▽ID: kyowa ウェイター 東▽ID: ann 悪戯好き ダーヴィド▽ID: drnm ウェイトレス 南▽ID: andante 外来 真子▽ID: 鳥足 修道女 クリスタ▽ID: 一真 お忍び ヴィクトリア▽ID: satane バニー 結良▽ID: sazanami 囚人 要▽ID: 伯爵 #ID一覧 | ||
![]() | 359 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:35:03 ▼ | |
絵本作家 塗絵▽ID: 翔鶴嫁 番長 露瓶▽ID: ktzw 小学生 朝陽▽ID: からけ 研修医 忍▽ID: トマソン アイドル 茜▽ID: 味噌ロモン ニート 欧司▽ID: Owl カメラマン つくね▽ID: BOU 教育学部 伊澄▽ID: 晋助 おしゃま 優奈▽ID: yukiutuno 御曹司 満彦▽ID: とも ファン 紅▽ID: TUKIN キャバ嬢 瑠樺▽ID: PUSAN 令嬢 御影▽ID: 有理 学生 比奈▽ID: しらたま団子 警察官 晋護▽ID: sasa1086 #ID一覧 | ||
![]() | -40 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:35:49 ▼ | |
![]() | 360 ニート 欧司 2018/12/11 09:37:31 ▼ | |
アル ヒ メヲ サマスト ワタシハ シンデイタ ゴクツブシ ハ イラナイ セイゼン サイゴ ノ キオク シュジュツ デ カイゾウ サレタ アマッタ パーツ ハ パフェ ノ ザイリョウ 二 サレタ (狼男CO) | ||
![]() | 361 文学部 麻耶 2018/12/11 09:38:24 ▼ | |
最後の二だけ漢字なのジワる | ||
![]() | -41 ニート 欧司 2018/12/11 09:38:41 ▼ | |
いきなり死んでるけどURなのでは? | ||
![]() | 362 文学部 麻耶 2018/12/11 09:39:06 ▼ | |
最後というか唯一のニだった | ||
![]() | 363 バニー 結良 2018/12/11 09:41:07 ▼ | |
コンピュータやんけ! | ||
![]() | 364 ニート 欧司 2018/12/11 09:41:24 ▼ | |
二 ニ II | ||
![]() | 365 学生 昌義 2018/12/11 09:41:32 ▼ | |
おはようございますー | ||
![]() | 366 修道女 クリスタ 2018/12/11 09:42:33 ▼ | |
どこからどう見ても幽霊だな! | ||
![]() | +1 ニート 欧司 2018/12/11 09:42:34 ▼ | |
貸切の墓か。 | ||
![]() | 367 バニー 結良 2018/12/11 09:42:47 ▼ | |
青い世界は君のものだ | ||
![]() | 368 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:43:45 ▼ | |
生存人外は12か。 | ||
![]() | 369 ウェイター 東 2018/12/11 09:43:56 ▼ | |
ワロタ。欧司がなんかすげーな。 | ||
![]() | 370 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 09:44:45 ▼ | |
少なく感じる不思議。 | ||
![]() | 371 バニー 結良 2018/12/11 09:44:48 ▼ | |
真実の報道を求めます | ||
![]() | *12 学生 昌義 2018/12/11 09:44:50 ▼ | |
狂人おらん | ||
![]() | 372 ニート 欧司 2018/12/11 09:44:53 ▼ | |
墓貸切とか二ートには過ぎた幸せデスわ。 | ||
ウェイター 東 は キャバ嬢 瑠樺 に愛を求めます。
![]() | 373 バニー 結良 2018/12/11 09:46:28 ▼ | |
これでいつでもまとめ出来るなあ(ゲス顔) | ||
カメラマン つくねは遺言を書きなおしました。
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの洗礼者のつくね」
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの洗礼者のつくね」
![]() | 374 ウェイター 東 2018/12/11 09:47:47 ▼ | |
ニートにとっては理想の楽園やね。 おいしいポジションだな。 | ||
![]() | 375 修道女 クリスタ 2018/12/11 09:48:08 ▼ | |
2日目の墓下のまとめお願いします | ||
![]() | *13 学生 昌義 2018/12/11 09:48:09 ▼ | |
そう言えばワイの希望も弾かれてんな この村にはおらん | ||
学生 昌義 が時間を進めるを選択しました。
![]() | +2 ニート 欧司 2018/12/11 09:49:17 ▼ | |
こういう役職を99人村で引きたかったなぁ。 | ||
![]() | +3 ニート 欧司 2018/12/11 09:50:51 ▼ | |
遺言投票関係なし、凸もねぇ勝ち組かな? | ||
![]() | 376 ニート 欧司 2018/12/11 09:53:42 ▼ | |
ウェイター 東 は 番長 露瓶 に愛を求めます。
![]() | 377 学生 昌義 2018/12/11 09:56:45 ▼ | |
喋りスギィ | ||
![]() | 378 修道女 クリスタ 2018/12/11 09:57:00 ▼ | |
墓下に荒らしがいるようですね | ||
![]() | 379 ニット帽 光 2018/12/11 09:58:42 ▼ | |
おはよっさ | ||
![]() | 380 ニート 欧司 2018/12/11 09:59:01 ▼ | |
青い窓が一番盛り上がっているので可及的速やかに青窓の獲得を目指して下さい。 | ||
![]() | 381 絵本作家 塗絵 2018/12/11 09:59:48 ▼ | |
墓下からニートが喋りだすとは物騒な世の中だねえ | ||
![]() | 382 ニート 欧司 2018/12/11 10:00:45 ▼ | |
ニートいきなり死んでいる方が物騒レベル高いような? | ||
![]() | 383 ニート 欧司 2018/12/11 10:01:08 ▼ | |
よくあるか・・・ | ||
![]() | 384 ニット帽 光 2018/12/11 10:01:23 ▼ | |
囁く通り越して騒がしいゴーストがいるな | ||
![]() | *14 ウェイトレス 南 2018/12/11 10:03:09 ▼ | |
狂人がいないとは、寂しいものだな。 | ||
ニット帽 光は遺言を書きました。
「ドーモ ミナ=サン 悪鬼 デス
1日目」
「ドーモ ミナ=サン 悪鬼 デス
1日目」
![]() | 385 ウェイター 東 2018/12/11 10:05:39 ▼ | |
ニートとニット帽..... | ||
![]() | *15 ツンデレ 弥生 2018/12/11 10:11:35 ▼ | |
ふらふらってのは夢遊病者だね 狼陣営にしかわからなくて、護衛も無効されるというデメリットしかない役職 しかし本人には村人と表記されるから、何になるんだろうなー楽しみたなーとワクワクさせられる | ||
ウェイター 東 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 386 番長 露瓶 2018/12/11 10:15:15 ▼ | |
孤独死して脳をCPUにされたんだな | ||
![]() | @1 有希 2018/12/11 10:21:54 ▼ | |
にっとにっとにしーてあげるー | ||
バニー 結良は遺言を書きなおしました。
「バニーで看板娘とかイケるやん
エロ同人待ったなし
おめでとう!今日の処刑は2回ある」
「バニーで看板娘とかイケるやん
エロ同人待ったなし
おめでとう!今日の処刑は2回ある」
![]() | 387 ツンデレ 弥生 2018/12/11 10:26:19 ▼ | |
おはよ、みんな早起きぃ | ||
![]() | 388 ニート 欧司 2018/12/11 10:30:08 ▼ | |
Celeron搭載 | ||
![]() | 389 ニート 欧司 2018/12/11 10:31:22 ▼ | |
オキタラ シンデタ シーオー | ||
絵本作家 塗絵 が時間を進めるを選択しました。
![]() | *16 学生 昌義 2018/12/11 10:36:15 ▼ | |
死ぬかわからんけど遺言いるんかねーえ | ||
学生 昌義は遺言を書きました。
「こんばんはまさよしです。
これが見られているということは私は死んだんですね
さて、遺産ですが
比奈に全額相続しようと思います。
1万2000円。」
「こんばんはまさよしです。
これが見られているということは私は死んだんですね
さて、遺産ですが
比奈に全額相続しようと思います。
1万2000円。」
![]() | *17 ウェイトレス 南 2018/12/11 10:38:39 ▼ | |
感覚がマヒしているのか分からんが、さして有利に感じないな。 何を騙ったものかという感じだ。 まともにやるなら、占い師でも出来ればな。 | ||
外来 真子は遺言を書きました。
「ニートは幽霊確定。」
「ニートは幽霊確定。」
アイドル 茜 が時間を進めるを選択しました。
![]() | *18 ウェイトレス 南 2018/12/11 10:46:15 ▼ | |
村側はずれクジが沢山居ることを期待しよう。 | ||
学生 昌義 は 不良 智哉 を襲撃します。
![]() | 390 学生 昌義 2018/12/11 10:48:34 ▼ | |
死人いるから結局偶数進行なのか | ||
悪戯好き ダーヴィドは遺言を書きなおしました。
「人魚姫っす
ダーヴィド」
「人魚姫っす
ダーヴィド」
![]() | 391 学生 昌義 2018/12/11 10:52:15 ▼ | |
コミットしたところで次の更新時間ずれるわけじゃないんだからコミット出来るならするべきやで(翌日が長くなる) | ||
![]() | 392 ツンデレ 弥生 2018/12/11 10:53:58 ▼ | |
遺言あるじゃん 何書こうかなー | ||
![]() | 393 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 10:54:25 ▼ | |
特に言うことがないならコミット、コミット! | ||
![]() | 394 研修医 忍 2018/12/11 10:56:43 ▼ | |
おはよ〜希望したの引けなかった〜。 | ||
番長 露瓶は遺言を書きました。
「P4は千枝派(CV堀江由衣)」
「P4は千枝派(CV堀江由衣)」
ツンデレ 弥生 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 395 ツンデレ 弥生 2018/12/11 10:57:17 ▼ | |
私も希望したの引け無かった 悲しい | ||
![]() | *19 研修医 忍 2018/12/11 10:57:26 ▼ | |
ども | ||
![]() | *20 研修医 忍 2018/12/11 10:58:57 ▼ | |
襲撃はお任せします | ||
![]() | *21 ツンデレ 弥生 2018/12/11 11:00:46 ▼ | |
初日は一人しか選べないから、明日COなど見て改めて相談しよう | ||
ツンデレ 弥生 は 不良 智哉 を襲撃します。
ツンデレ 弥生 は 不良 智哉 を襲撃します。
研修医 忍は遺言を書きました。
「コンピューター取られた。嘘だが。」
「コンピューター取られた。嘘だが。」
![]() | 396 番長 露瓶 2018/12/11 11:01:21 ▼ | |
ところで番長RPしようと思ってたんだけど全く何もまとまらないうちに始まってなんかもうどうでもよくなってきたんだけど、まぁええか | ||
研修医 忍 が時間を進めるを選択しました。
![]() | *22 研修医 忍 2018/12/11 11:03:43 ▼ | |
了解です。 | ||
研修医 忍は遺言を書きなおしました。
「ニートの死因は私だ。」
「ニートの死因は私だ。」
![]() | -42 修道女 クリスタ 2018/12/11 11:06:52 ▼ | |
文学部 麻耶▽ < 63 >828/891 情報学部 範男▽ < 5 >886/891 ニット帽 光▽ < 2 >889/891 | ||
![]() | *23 ウェイトレス 南 2018/12/11 11:07:13 ▼ | |
明日こっそり矢が刺さってたとしても、村を半壊させるまでは手を取り合いたい。 | ||
![]() | *24 外来 真子 2018/12/11 11:08:01 ▼ | |
ちなみに、ダミーの発言数減ってないのは仕様ですか? | ||
![]() | 397 研修医 忍 2018/12/11 11:08:54 ▼ | |
いきなり死体が喋ってて草。 ニートさんまとめよろ。 | ||
![]() | 398 番長 露瓶 2018/12/11 11:08:54 ▼ | |
イザナギッ‼ | ||
![]() | 399 バニー 結良 2018/12/11 11:09:00 ▼ | |
細かいことはいいじゃん(いいじゃん) | ||
![]() | 400 番長 露瓶 2018/12/11 11:09:09 ▼ | |
よし | ||
![]() | 401 番長 露瓶 2018/12/11 11:10:01 ▼ | |
申しわけ程度の番長成分を出して行こう | ||
研修医 忍は遺言を書きなおしました。
「💩」
「💩」
![]() | 402 研修医 忍 2018/12/11 11:12:13 ▼ | |
コミットしたよ〜 | ||
![]() | 403 番長 露瓶 2018/12/11 11:12:58 ▼ | |
これ、そこに転がってるニートが村の味方なのか聞かなくてもいいやつ? | ||
ウェイトレス 南は遺言を書きなおしました。
「皆さんがこのメッセージを読んでいるということは、私はこの世には居ないということでしょう。そう、私は溶かされたのです。
あの卑劣な、看護婦の手によって……。
どうか、彼女の息の根を止めて下さい。
南」
「皆さんがこのメッセージを読んでいるということは、私はこの世には居ないということでしょう。そう、私は溶かされたのです。
あの卑劣な、看護婦の手によって……。
どうか、彼女の息の根を止めて下さい。
南」
![]() | *25 ウェイトレス 南 2018/12/11 11:19:37 ▼ | |
分からんけど、表で訊いていいんじゃないのそれ。 | ||
![]() | *26 外来 真子 2018/12/11 11:21:45 ▼ | |
テキトーな段階で聞いてみますね。 たぶん夕方。 | ||
![]() | 404 バニー 結良 2018/12/11 11:28:33 ▼ | |
どうなんよニートくん | ||
![]() | 405 バニー 結良 2018/12/11 11:30:09 ▼ | |
村の味方かどうかはランダムで決まるし今のところ本人の自白を待つしかない まあだいたい村の敵になってる印象があるけど | ||
![]() | 406 御曹司 満彦 2018/12/11 11:30:13 ▼ | |
偶数奇数って言ってもどうせ死体数多くなったり少なくなったりするだろうし、まだそこまで考えなくても。 | ||
![]() | 407 御曹司 満彦 2018/12/11 11:32:00 ▼ | |
>>401 酷使されてそう | ||
![]() | @2 有希 2018/12/11 11:33:10 ▼ | |
初手死亡って矢とかあんまり刺されなくて良いよねとかそういうのあるくない? | ||
![]() | 408 バニー 結良 2018/12/11 11:34:06 ▼ | |
ハマの番長 | ||
![]() | 409 ツンデレ 弥生 2018/12/11 11:34:18 ▼ | |
屋根裏のゴミが居たら素直に手を上げてください | ||
御曹司 満彦は遺言を書きました。
「満彦です\( ´・_・`)/
蓋を開けたらあら不思議、鬼女というゴミ役職でした。票数違う役職に好かれちゃったのかな?」
「満彦です\( ´・_・`)/
蓋を開けたらあら不思議、鬼女というゴミ役職でした。票数違う役職に好かれちゃったのかな?」
![]() | *27 学生 昌義 2018/12/11 11:40:48 ▼ | |
この人数で6Wしか狼陣営いないから当分の目標は村の票数減らしですな | ||
![]() | 410 宇宙飛行士 星児 2018/12/11 11:41:54 ▼ | |
ノ | ||
![]() | -43 絵本作家 塗絵 2018/12/11 11:42:04 ▼ | |
とりあえず学者系と白黒系がいるかはチェックチェックしたいかな | ||
![]() | 411 学生 昌義 2018/12/11 11:42:13 ▼ | |
15吊り13人外なことは頭の片隅に置いとくくらいはいいだろう | ||
![]() | -44 絵本作家 塗絵 2018/12/11 11:42:48 ▼ | |
つか、味方がいないはつらない? 誰かコピーして? | ||
![]() | 412 絵本作家 塗絵 2018/12/11 11:43:17 ▼ | |
何、どうせ誰かが裏切者希望してるさ。 | ||
![]() | 413 学生 昌義 2018/12/11 11:44:41 ▼ | |
マジ?私のことも裏切っといてくれよ腹立つなぁ 恨めしいー憎らしいー ぐぬぬぬぬ うおあああああああああ | ||
![]() | 414 絵本作家 塗絵 2018/12/11 11:47:17 ▼ | |
研究者さーん 昌義君のこと調べておいてくれたまえー | ||
![]() | 415 バニー 結良 2018/12/11 11:47:51 ▼ | |
よっしゃ任せてもらおう | ||
![]() | 416 アイドル 茜 2018/12/11 11:51:12 ▼ | |
これコミットできるの?☆ | ||
![]() | 417 学生 比奈 2018/12/11 11:51:13 ▼ | |
繰り返す日々に何の意味があるの。 | ||
学生 比奈は遺言を書きました。
「中身占い師。」
「中身占い師。」
![]() | 418 学生 比奈 2018/12/11 11:56:55 ▼ | |
あの村の仕返しだ、貴様を能力の対象にしてやる。 修道女クリスタ.......っ!!! | ||
学生 比奈 は 修道女 クリスタ の中身を占います。
![]() | 419 御曹司 満彦 2018/12/11 11:57:54 ▼ | |
眠れないよ | ||
![]() | 420 番長 露瓶 2018/12/11 11:58:12 ▼ | |
![]() | 421 バニー 結良 2018/12/11 11:59:15 ▼ | |
閣下! | ||
![]() | 422 学生 比奈 2018/12/11 12:01:07 ▼ | |
今日は稲妻TUESDAYか。 | ||
![]() | 423 番長 露瓶 2018/12/11 12:01:14 ▼ | |
屋根裏のゴミはスマブラ出るとか美味しいとこだけ持っていく | ||
![]() | 424 ニット帽 光 2018/12/11 12:02:12 ▼ | |
そういえばコミってなかったな | ||
ニット帽 光 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 425 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:05:07 ▼ | |
総統閣下ですけど、頭が高いぞ | ||
おしゃま 優奈 は 学生 昌義 の役職を調べます。
![]() | 426 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:07:43 ▼ | |
ちなみに総統閣下は始まってすぐ比奈にセットしてますよ | ||
![]() | 427 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:07:56 ▼ | |
総統閣下でした | ||
![]() | 428 バニー 結良 2018/12/11 12:08:37 ▼ | |
なんだテメー イチャついてんじゃねーぞ | ||
おしゃま 優奈は遺言を書きました。
「聖人CO By優奈
学者:昌義
霊媒:
神主:欧司村人」
「聖人CO By優奈
学者:昌義
霊媒:
神主:欧司村人」
![]() | 429 おしゃま 優奈 2018/12/11 12:11:31 ▼ | |
黒幕の存在と欧司の死亡を確認 本人の発言曰くコンピュータっぽいかな? 村側アピールしないなら人外側と見ておいた方がいいかもね | ||
おしゃま 優奈 が時間を進めるを選択しました。
情報学部 範男 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 430 情報学部 範男 2018/12/11 12:15:22 ▼ | |
【猫又】おはよう【co】(2回目) | ||
![]() | 431 バニー 結良 2018/12/11 12:16:54 ▼ | |
【対抗猫(=^_^=)又CO】 | ||
![]() | 432 学生 比奈 2018/12/11 12:17:54 ▼ | |
コンピュータが幽霊を自称することはあっても、その逆はないらしいな。 | ||
![]() | 433 学生 比奈 2018/12/11 12:18:06 ▼ | |
にゃー。 | ||
![]() | 434 番長 露瓶 2018/12/11 12:19:08 ▼ | |
初日に猫又COする猫又とか見たことな——俺したことあったわ 猫狩COしたら何故か狩人が対抗COしてきた そいつは猫又が村役職だと思ってなかったなどと供述 | ||
![]() | 435 文学部 麻耶 2018/12/11 12:20:33 ▼ | |
寝てちょっと目が覚めたら続以外全員コミットしてて仕事寝過ごしたかと思った | ||
![]() | 436 番長 露瓶 2018/12/11 12:20:48 ▼ | |
猫又COもう一人いませんでしたかね… | ||
![]() | 437 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:21:52 ▼ | |
>>226これか | ||
![]() | 438 情報学部 範男 2018/12/11 12:22:04 ▼ | |
初日にLWCOして閣下だったことあるよ | ||
![]() | 439 文学部 麻耶 2018/12/11 12:22:24 ▼ | |
にゃーん | ||
![]() | 440 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:22:47 ▼ | |
閣下だけど呼んだ? | ||
![]() | 441 文学部 麻耶 2018/12/11 12:23:09 ▼ | |
ねじれ的にはにゃおーんかな 村陣営だけど どうでもいいけど家の猫が可愛い | ||
![]() | 442 情報学部 範男 2018/12/11 12:24:56 ▼ | |
>>441 猫より君の方が可愛いよ | ||
![]() | 443 御曹司 満彦 2018/12/11 12:25:12 ▼ | |
コンピューターはどうせ人外側だと思うのであまり期待しない…(´・ω・`).. | ||
![]() | 444 御曹司 満彦 2018/12/11 12:25:15 ▼ | |
にゃー。 | ||
![]() | 445 ウェイター 東 2018/12/11 12:26:50 ▼ | |
なぁ、猫又って吊り回避の場面以外でCOするメリットってあるんか? 黙って食われたらGJというイメージなんやけどなぁ。 | ||
![]() | 446 文学部 麻耶 2018/12/11 12:27:29 ▼ | |
>>442 うちの猫の可愛さがわからないなんて目玉うがいして出直してこい | ||
![]() | 447 情報学部 範男 2018/12/11 12:28:08 ▼ | |
![]() | 448 ウェイター 東 2018/12/11 12:31:12 ▼ | |
![]() | 449 文学部 麻耶 2018/12/11 12:36:54 ▼ | |
すづきさんが人を口説くのはいつものこと | ||
![]() | 450 番長 露瓶 2018/12/11 12:37:09 ▼ | |
オデオ…ライブアライブかな? | ||
![]() | 451 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:37:43 ▼ | |
村の敵と表明するメリットはコンピュータにないだろう。 | ||
![]() | 452 情報学部 範男 2018/12/11 12:39:54 ▼ | |
これが私の平常だから 逆に口説かないと怪しまれるまである | ||
![]() | 453 ウェイター 東 2018/12/11 12:40:53 ▼ | |
いや、そもそも「村の味方やで」と言われて、まるで疑う事なく信じる奴っていないと思うんだが。 | ||
![]() | 454 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:40:56 ▼ | |
>>411 ニートコンピュータなら15吊12人外かな。 | ||
![]() | 455 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:41:58 ▼ | |
陣営変化系がどれだけいるのだろうか。 | ||
![]() | 456 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:44:16 ▼ | |
![]() | 457 赤子 羽風 2018/12/11 12:44:18 ▼ | |
生命維持装置ちゃんと動いてるか? | ||
![]() | -45 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:44:32 ▼ | |
クリスタはなんでそっち引っ張ってきたんだろう。 | ||
![]() | 458 文学部 麻耶 2018/12/11 12:45:02 ▼ | |
それは気になるところ 少なくとも裏切者だかアイドルだか知れたもんじゃないのもいるっぽいし、勝ち目あるんかなあと思わなくもない | ||
![]() | 459 文学部 麻耶 2018/12/11 12:45:52 ▼ | |
点呼に出てたから動いてはいるでしょ コアタイムの問題じゃない? | ||
![]() | 460 番長 露瓶 2018/12/11 12:46:29 ▼ | |
俺は四天王なんだ…誰が何と言おうと俺は四天王なんだ… | ||
![]() | -46 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:46:37 ▼ | |
裏切者(裏)【復讐者陣営】[占:○][霊:○][数:○][狼:×][妖:×][呪:×] 初日に自分とダミーを除いた人数の4分の1の数を自身を対象に仇敵にします。(ダミー以外) 裏切者自身は仇敵になりません。 その後は戦乙女と同様です。 要するに自分が死ぬことで仇敵化した者全ての勝利条件を満たせる戦乙女です。 開始時の編成公開メッセージ直後 ID:A4JJEx69 は、人狼猫 アイナス、バーテン なこる、落ち葉 LEAF を裏切りました。 | ||
![]() | 461 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:47:24 ▼ | |
白衣信者ってなんだろう。 | ||
![]() | 462 文学部 麻耶 2018/12/11 12:48:07 ▼ | |
どうでもいいけど四天王に期待してる人って「俺は生存終了する」って宣言してるみたいである意味傲慢よね | ||
![]() | 463 おしゃま 優奈 2018/12/11 12:48:28 ▼ | |
メタいこと言うとシャッフルだと人外よりその他陣営を突っ込んでくる人が多いような予感がする なんかコンピュータっぽいのもいるし | ||
![]() | 464 文学部 麻耶 2018/12/11 12:48:53 ▼ | |
>>461 教祖か吸血鬼にセットされると語尾に「白衣」がつきます。 この語尾はわしがリアル白衣信者のためわしの村ではデフォです | ||
![]() | -47 ウェイター 東 2018/12/11 12:48:54 ▼ | |
>>452 君の日常や性癖は知らんし興味はないが、はたから見てて面白かった。肉食系男子って感じやね。 | ||
![]() | 465 番長 露瓶 2018/12/11 12:49:19 ▼ | |
えっ、四天王って死んでたら駄目なの? | ||
![]() | 466 赤子 羽風 2018/12/11 12:49:39 ▼ | |
有能から死んでいくとか言う言葉もある | ||
![]() | 467 文学部 麻耶 2018/12/11 12:49:43 ▼ | |
せやよ? ちなみに死亡時解除だから蘇生しても無意味 | ||
![]() | 468 赤子 羽風 2018/12/11 12:50:01 ▼ | |
>>465 地位剥奪される | ||
![]() | 469 文学部 麻耶 2018/12/11 12:50:34 ▼ | |
>>466 昔身内村での生存敗北率が高かったのはそういうことか……() | ||
![]() | 470 ウェイター 東 2018/12/11 12:50:53 ▼ | |
>>452 君の日常や性癖は知らんし興味はないが、はたから見てて面白かった。肉食系男子って感じやね。 | ||
![]() | 471 番長 露瓶 2018/12/11 12:50:57 ▼ | |
じゃあ四天王じゃなくていいや | ||
![]() | 472 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:51:05 ▼ | |
>>464 多謝。 | ||
![]() | 473 文学部 麻耶 2018/12/11 12:51:54 ▼ | |
ん〜〜〜せっかく目覚めたし寿司でも食いに行きたいが寒くて外でたくないな | ||
![]() | 474 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:54:04 ▼ | |
裏切者いたら8人の仇敵を処理しないとアカンのか。 | ||
![]() | 475 バニー 結良 2018/12/11 12:54:58 ▼ | |
裏切り者を殺さなきゃいいぞ | ||
![]() | -48 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 12:57:37 ▼ | |
面白い仕様だなコレ。 | ||
![]() | 476 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:57:38 ▼ | |
そりゃ黒幕いたら生存終了目指すだろう | ||
![]() | 477 修道女 クリスタ 2018/12/11 12:58:27 ▼ | |
俺の幸運スキルで四天王を引いているのは間違いないので、後は黒幕をお守りするだけだ | ||
お忍び ヴィクトリアは遺言を書きなおしました。
「エスパー(E)【村人陣営】
自分に投票、もしくは能力をセットされた時に感知できる。
ヴィクトリア」
「エスパー(E)【村人陣営】
自分に投票、もしくは能力をセットされた時に感知できる。
ヴィクトリア」
![]() | 478 学生 比奈 2018/12/11 12:59:49 ▼ | |
総統閣下と黒幕って立場似てるな。 | ||
![]() | 479 学生 比奈 2018/12/11 13:00:11 ▼ | |
つまり.......。 | ||
![]() | 480 ウェイター 東 2018/12/11 13:00:11 ▼ | |
黒幕陣営での勝利はロマン。 狙ってみたいよなー | ||
![]() | -49 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 13:00:35 ▼ | |
クリスタ裏切者だったりするのかな。 | ||
![]() | 481 学生 比奈 2018/12/11 13:00:39 ▼ | |
こんな寒い日はガリガリ君だな。 | ||
![]() | 482 修道女 クリスタ 2018/12/11 13:01:01 ▼ | |
君のような勘のいいガキは嫌いだよ | ||
![]() | 483 赤子 羽風 2018/12/11 13:02:36 ▼ | |
ばぶー | ||
![]() | 484 文学部 麻耶 2018/12/11 13:03:16 ▼ | |
負けるときには8完遂メッセか裏切り被弾者によるPPが見たい いや勝つつもりではあるけどもフリークとしては浪漫を禁じ得ないよねっていう意味で | ||
![]() | 485 文学部 麻耶 2018/12/11 13:05:13 ▼ | |
なんか初日から不穏だからいそうってだけで実際にいるかどうかもしれんが | ||
![]() | 486 文学部 麻耶 2018/12/11 13:09:50 ▼ | |
白衣と裏切者に浪漫を感じる人がもっといてもおかしくないと思うの | ||
![]() | 487 文学部 麻耶 2018/12/11 13:10:09 ▼ | |
地味に吸血鬼陣営も好き | ||
![]() | 488 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:11:08 ▼ | |
猫が溢れる村。良いと思う。 黒幕はただの幻想だ。潰せ潰せ | ||
![]() | 489 ウェイター 東 2018/12/11 13:12:12 ▼ | |
不穏なのか、この村の状況.... フリークじゃねーからよく分からんのだが、どちらかといえばコミット前の時間をもて余している印象ではある。 | ||
![]() | 490 赤子 羽風 2018/12/11 13:13:18 ▼ | |
それな | ||
![]() | 491 学生 比奈 2018/12/11 13:13:28 ▼ | |
村の中に人狼が紛れ込んでるんだぞ!!!! 不穏に決まってるじゃねーか!!!!!! もう誰も信じられない!! 私は部屋に戻る!!! | ||
![]() | 492 文学部 麻耶 2018/12/11 13:14:15 ▼ | |
>>489 なんか序盤に誰かがだれかを殺したがってたように思えたけどどうなんかね 1/4人外はいいぞ | ||
![]() | 493 文学部 麻耶 2018/12/11 13:14:56 ▼ | |
なんか自殺しに行った奴がいる | ||
![]() | 494 学生 比奈 2018/12/11 13:15:26 ▼ | |
麻耶さんが裏切り者を入れたから敏感なのだ...。 | ||
![]() | 495 文学部 麻耶 2018/12/11 13:16:13 ▼ | |
>>494 フリーク故にノーコメントでいきます 事実は当事者のみが知る | ||
![]() | 496 ウェイター 東 2018/12/11 13:16:16 ▼ | |
>>488 君、黒幕に恨みがあるの? いや、仲間に選ばれたらそれは光栄だし、遣り甲斐あると思うんだよな。 問題なのは、その自覚が明確にもてない点と黒幕の正体が分からない点であって、それは大した事じゃないさ。 | ||
![]() | 497 文学部 麻耶 2018/12/11 13:17:13 ▼ | |
あくまで「明確に持てない」っていうのが歴戦練磨の猛者感あるね | ||
![]() | 498 学生 比奈 2018/12/11 13:17:19 ▼ | |
四天王に選ばれない程度の貧弱者では勝利など不可能.......。 | ||
![]() | 499 おしゃま 優奈 2018/12/11 13:18:35 ▼ | |
そういえば初日犠牲者より先に死んでる人は何犠牲者と呼べばいいんだ | ||
![]() | 500 文学部 麻耶 2018/12/11 13:18:40 ▼ | |
お腹空きすぎてとうとう足が痺れてきた | ||
![]() | 501 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:18:58 ▼ | |
>>496 え?自分が四天王だと思って黒幕勝たせろってこと? | ||
![]() | 502 文学部 麻耶 2018/12/11 13:19:01 ▼ | |
>>499 犠牲者の始祖 | ||
![]() | 503 赤子 羽風 2018/12/11 13:20:25 ▼ | |
ニートは殺されたわけじゃないぞ | ||
![]() | 504 赤子 羽風 2018/12/11 13:23:04 ▼ | |
俺は黒幕には頼らねぇ | ||
![]() | 505 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 13:24:32 ▼ | |
村20いるのに最初から四天王陣営になるのは理解しかねる。 | ||
![]() | 506 ウェイター 東 2018/12/11 13:24:36 ▼ | |
![]() | 507 修道女 クリスタ 2018/12/11 13:25:45 ▼ | |
黒幕禁則事項ですなら総統閣下の俺が何らかの方法で自殺して村側全員禁則事項ですからな | ||
![]() | 508 修道女 クリスタ 2018/12/11 13:26:03 ▼ | |
黒幕を禁則事項ですな | ||
![]() | 509 おしゃま 優奈 2018/12/11 13:27:00 ▼ | |
黒幕は●出るのに噛まれるとかいう不条理な役職 言ってみるならめっちゃヘイトを集める狼男 | ||
![]() | 510 文学部 麻耶 2018/12/11 13:27:40 ▼ | |
1Kアパートで23度設定の暖房を半日以上つけてるのにまだ室温19度ってやばない? | ||
![]() | 511 赤子 羽風 2018/12/11 13:29:02 ▼ | |
25度にしておこう | ||
![]() | 512 絵本作家 塗絵 2018/12/11 13:29:19 ▼ | |
そりゃ敷物とか敷いてないからでは無いのか? | ||
![]() | 513 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:29:20 ▼ | |
>>506 すまんな。私はロマンではなく、やりやすい勝ち筋を追う方が好きなんだ。だから黒幕は生きていると強制敗北になるから潰す。それだけだよ | ||
![]() | 514 修道女 クリスタ 2018/12/11 13:29:31 ▼ | |
マジレスすると村側21いてもこんなん何入ってるかわからんし、どんだけ陣営変化するかもわからんから最初から村絶望ですけどね | ||
ウェイター 東 は 番長 露瓶 に愛を求めます。
![]() | 515 文学部 麻耶 2018/12/11 13:29:42 ▼ | |
家賃安くて(少なくとも)冷房しっかりしてて職場にもバイト先にも近くて間取りもよかった前のアパートに帰りたいよぅ……ペット禁止にした新大家ゆるさん…… | ||
![]() | 516 修道女 クリスタ 2018/12/11 13:29:55 ▼ | |
黒幕勝利を視野に入れてない人は人外に見えちゃいますぅ | ||
![]() | 517 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:30:20 ▼ | |
暖房に頼らずに毛布とかめっちゃ被って過ごせばいいのだ | ||
![]() | 518 絵本作家 塗絵 2018/12/11 13:30:30 ▼ | |
>>513 つまり実質的な蝙蝠coで良いのか? | ||
![]() | 519 文学部 麻耶 2018/12/11 13:30:53 ▼ | |
>>512 残念すぎることに敷物を敷ける間取りではないのだ 設計事故レベルのクソ間取りなのだ | ||
![]() | 520 おしゃま 優奈 2018/12/11 13:30:59 ▼ | |
>>514 村人21人なら絶望だけど村役職21人だからね 何とかなるなる | ||
![]() | 521 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:31:04 ▼ | |
>>518 理由がわからないので理由プリーズ | ||
![]() | @3 spica 2018/12/11 13:32:47 ▼ | |
銀狼がんばってー | ||
![]() | 522 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:32:50 ▼ | |
初日なのにすごく難しい話してるね。 僕はお腹いっぱいで頭が回らないや〜鯖の味噌煮美味しかったよ! | ||
![]() | 523 文学部 麻耶 2018/12/11 13:32:55 ▼ | |
黒幕より裏切者の方が浪漫だろう だって相手を殺して生き延びるのが復讐者陣営の本懐なのに裏切者は死ぬのが勝利の基本条件なんだぜ? どこぞの劣化版ハイエナとは違うぜ | ||
![]() | 524 文学部 麻耶 2018/12/11 13:33:07 ▼ | |
>>522 ちょうだい | ||
![]() | 525 絵本作家 塗絵 2018/12/11 13:33:40 ▼ | |
>>521 黒幕生きてて一番都合が悪いのは蝙蝠その他だからだな | ||
![]() | 526 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:34:13 ▼ | |
>>525 雑 | ||
![]() | 527 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:34:17 ▼ | |
>>524 僕のお手製でいいなら…! | ||
![]() | -50 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:34:55 ▼ | |
黒幕なんかやだよー!!!パン屋さんやりたいよーー!! | ||
![]() | 528 文学部 麻耶 2018/12/11 13:35:44 ▼ | |
>>527 食べたい | ||
![]() | -51 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:36:14 ▼ | |
寂しいし、みんなから狙われるし… のんびりパンを焼いていたかったよ… | ||
![]() | 529 文学部 麻耶 2018/12/11 13:36:23 ▼ | |
リアルに腹へってしょうがない(冷蔵庫はすっからかんだ)からほんと外行って飯食わなきゃ…… | ||
![]() | 530 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:37:11 ▼ | |
>>528 お味噌汁とほうれん草ともやしの胡麻和えとりんごも付けようか? | ||
![]() | 531 絵本作家 塗絵 2018/12/11 13:37:48 ▼ | |
>>526 疑う理由としては悪くないだろう | ||
![]() | -52 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:38:03 ▼ | |
騙る役職は帰ったら探そ〜(´・ω・`) | ||
![]() | 532 お忍び ヴィクトリア 2018/12/11 13:38:07 ▼ | |
ナチュラルな飯テロ。 順調に人の心を失いつつある。 | ||
![]() | 533 文学部 麻耶 2018/12/11 13:38:13 ▼ | |
>>530 今リアルでそれ言われたらうちに住んでくれって返しそう | ||
![]() | 534 ツンデレ 弥生 2018/12/11 13:38:17 ▼ | |
>>530 白いご飯がない… | ||
![]() | 535 悪戯好き ダーヴィド 2018/12/11 13:39:03 ▼ | |
>>531 当り屋の被害にあった気分だわ | ||
![]() | 536 文学部 麻耶 2018/12/11 13:39:10 ▼ | |
さて、寿司にするか牛丼にするか | ||
![]() | 537 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:40:04 ▼ | |
![]() | -53 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:40:56 ▼ | |
今日の僕のリアル昼食〜 鯖の味噌煮の出来栄えは良かった | ||
![]() | 538 文学部 麻耶 2018/12/11 13:41:22 ▼ | |
>>537 うちに住んで欲しいわ | ||
![]() | 539 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:42:37 ▼ | |
>>538 料理担当でいいなら喜んで♪ | ||
![]() | 540 絵本作家 塗絵 2018/12/11 13:44:00 ▼ | |
>>535 当たらないとわからないじゃーないか | ||
![]() | 541 文学部 麻耶 2018/12/11 13:44:12 ▼ | |
>>539 キャラチップ変えた方がいいんじゃない? | ||
![]() | 542 教育学部 伊澄 2018/12/11 13:45:27 ▼ | |
教育学部 伊澄は、教授に呼ばれたから戻るね〜 2018/12/11 13:46:13
![]() | 543 ニット帽 光 2018/12/11 13:49:35 ▼ | |
○○が倒されたか・・・ ククク、奴は四天王の中でも最強・・・ やべえ、どうするよ(絶望 | ||
![]() | 544 文学部 麻耶 2018/12/11 13:51:17 ▼ | |
噴いた | ||
![]() | 545 文学部 麻耶 2018/12/11 13:51:55 ▼ | |
弱くてもみんなが力を合わせれば強敵にも勝てるって少年漫画あたりが教えてくれそう | ||
![]() | 546 ニット帽 光 2018/12/11 13:55:22 ▼ | |
友情、努力、勝利など生温い 人脈、権力、資産がすべて | ||
![]() | 547 文学部 麻耶 2018/12/11 13:58:28 ▼ | |
人狼やってる最中に勝利を生ぬるいに分類していいのか | ||
![]() | 548 おしゃま 優奈 2018/12/11 14:01:57 ▼ | |
3人一緒にかかってくる四天王とか嫌だよ | ||
![]() | 549 文学部 麻耶 2018/12/11 14:03:29 ▼ | |
>>548 残念ながらこの村に関して言えば7人だ | ||
![]() | 550 ニット帽 光 2018/12/11 14:04:16 ▼ | |
四天王3人同時に来たら強力な全体攻撃でまとめて消し飛ばして経験値たんまりになっていいことづくめじゃないか | ||
![]() | 551 文学部 麻耶 2018/12/11 14:04:53 ▼ | |
ついったで寿司or牛丼のアンケート取ってみたら100%寿司なんだけど一体どんだけわしが寿司好きだと思われてるんだろう(リア友に「回る寿司をおごれ」とリプ送りまくってるからしゃーないのかもしれんが) | ||
![]() | 552 おしゃま 優奈 2018/12/11 14:07:05 ▼ | |
>>550 ザコ敵!!! | ||
![]() | 553 文学部 麻耶 2018/12/11 14:07:25 ▼ | |
なんかニートがニートっていうか囚人って感じする | ||
![]() | 554 ニット帽 光 2018/12/11 14:10:00 ▼ | |
>>552 ボスだろうがなんだろうがだいたいメギドラオン連打してれば勝てる | ||
![]() | 555 文学部 麻耶 2018/12/11 14:14:09 ▼ | |
寒い | ||
![]() | -54 生命維持装置 続 2018/12/11 14:29:06 ▼ | |
<<賢者日記>> *占* 3日目: *霊* 3日目: *巫* 2日目:ニート人間 3日目: | ||
生命維持装置 続は遺言を書きました。
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:」
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:」
![]() | -55 番長 露瓶 2018/12/11 14:47:06 ▼ | |
アイドルかリア充でもいそうだが | ||
生命維持装置 続 は カメラマン つくね を占います。
生命維持装置 続は遺言を書きなおしました。
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:つくね?
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:
」
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:つくね?
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:
」
![]() | 556 生命維持装置 続 2018/12/11 14:51:37 ▼ | |
パオーン(`・J・´) メンゴ、うっかり八兵衛現象で忘れてた。 とりコミ! | ||
生命維持装置 続 が時間を進めるを選択しました。
![]() | 557 生命維持装置 続 2018/12/11 14:52:58 ▼ | |
ニートくん、死亡確認! | ||
生命維持装置 続は遺言を書きなおしました。
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:つくね?
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:智哉?
」
「パオーン!
賢者COだぞう!
<<賢者日記>>
*占*
3日目:つくね?
*霊*
3日目:なし
*巫*
2日目:ニート人間
3日目:智哉?
」
![]() | 558 バニー 結良 2018/12/11 14:55:09 ▼ | |
いつになく集まりがいいにゃんね | ||
![]() | 559 文学部 麻耶 2018/12/11 15:03:05 ▼ | |
ん、コミット集まったか んじゃこみ | ||
文学部 麻耶 が時間を進めるを選択しました。
終了(勝者: 人狼陣営)
この日の発言はまだありません。
生存者 (0)
参加者一覧(詳細)
| # | 名前 | ユーザー | 役職 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 学生 昌義 | イヅル | — | 生存 勝利 |
| 2 | 学生 比奈 | しらたま団子 | — | 生存 勝利 |
| 4 | 不良 智哉 | DUMMY | — | 生存 勝利 |
| 6 | ウェイター 東 | ann | — | 生存 勝利 |
| 7 | ウェイトレス 南 | andante | — | 生存 勝利 |
| 9 | 警察官 晋護 | sasa1086 | — | 生存 勝利 |
| 11 | 看護師 小百合 | 紗紋 | — | 生存 勝利 |
| 12 | 外来 真子 | 鳥足 | — | 生存 勝利 |
| 13 | 生命維持装置 続 | zeno | — | 生存 勝利 |
| 14 | 研修医 忍 | トマソン | — | 生存 勝利 |
| 19 | カメラマン つくね | BOU | — | 生存 勝利 |
| 22 | キャバ嬢 瑠樺 | PUSAN | — | 生存 勝利 |
| 23 | 小学生 朝陽 | からけ | — | 生存 勝利 |
| 26 | ニット帽 光 | Aki | — | 生存 勝利 |
| 27 | アイドル 茜 | 味噌ロモン | — | 生存 勝利 |
| 28 | アイドル 岬 | mythree | — | 生存 勝利 |
| 34 | 令嬢 御影 | 有理 | — | 生存 勝利 |
| 38 | 赤子 羽風 | kyowa | — | 生存 勝利 |
| 44 | 囚人 要 | 伯爵 | — | 生存 勝利 |
| 52 | 文学部 麻耶 | akakanamin | — | 生存 勝利 |
| 56 | 情報学部 範男 | すづき | — | 生存 勝利 |
| 57 | 教育学部 伊澄 | 晋助 | — | 生存 勝利 |
| 60 | ファン 紅 | TUKIN | — | 生存 勝利 |
| 63 | 番長 露瓶 | ktzw | — | 生存 勝利 |
| 64 | バニー 結良 | sazanami | — | 生存 勝利 |
| 65 | 御曹司 満彦 | とも | — | 生存 勝利 |
| 75 | 絵本作家 塗絵 | 翔鶴嫁 | — | 生存 勝利 |
| 78 | ニート 欧司 | Owl | — | 生存 勝利 |
| 83 | ツンデレ 弥生 | ほうほう | — | 生存 勝利 |
| 86 | 宇宙飛行士 星児 | ドラロ | — | 生存 勝利 |
| 87 | お忍び ヴィクトリア | satane | — | 生存 勝利 |
| 88 | 悪戯好き ダーヴィド | drnm | — | 生存 勝利 |
| 89 | 修道女 クリスタ | 一真 | — | 生存 勝利 |
| 91 | おしゃま 優奈 | yukiutuno | — | 生存 勝利 |









































